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2006年10月 2日 (月)

天と地と

来年のNHK大河ドラマは井上靖原作の『風林火山』です(2007年は井上靖生誕100年にあたります)。

風林火山の描く武田信玄と軍師山本勘助はどちらも魅力ある人物ですが、私は、信玄や山本勘助と相対峙する上杉謙信が好きです。

といっても私の知る謙信は、海音寺潮五郎さんの『天と地と』に描かれている謙信ですが。。

海音寺潮五郎さんが昭和46年に『全集』をまとめた際、『あとがき』に書かれたように、武田信玄と上杉謙信の二人は、ある意味で、対照的な武将であったようです。

例えば、武田信玄は戦術を決定するに際し、諸将を集めて、それぞれの意見を聞いて立案し、さらにそれを皆に批判させたと言われています。

対する上杉謙信は、一人で毘沙門堂にこもって『禊斎して思念を凝らして決定する』という独断専行の天才的武将として『天と地と』には描かれています。

後世にまで長く伝えられた「車がかりの陣法」を始めとして、謙信は、自らの危険を厭わない思い切った戦術を多くたてました。

信玄との戦さを前に、謙信から軍勢の編成を渡された宇佐美定行は、

「思い切った戦さを遊ばれるのは常のことでございますが、この度はまた一層思い切ったことをなされるお覚悟でございますな」

と言います。

これに対して、謙信はこう述べます。

「さすがだな。よう見た。きゃつとの合戦は、いつも吹っ切れぬ。勝ったようでもあり、負けたようでもある。はっきりせぬところが、業がにえてならぬ。こんどこそ、はっきりと雌雄を決したいのだ。」

合戦の前、善光寺平や川中島には、武田方の勢は一手もありませんでした。川中島の東南の外、千曲川に沿った海津部落に営まれた城に高坂弾正がこもっているだけだったのです。

これを見て、謙信配下の諸将は謙信に進言します。

「天のあたえるところであります。敵の諸勢集まらぬ先に海津城を乗りつぶさるべきでございます。」

これに対して謙信。

「信玄入道ならば、そうするであろう。しかし、おれはそうはせね。・・武田の諸勢が集まって来てから、たがいに堂々の陣を張って戦いたいのじゃ。」

「お屋形のそのお潔さが、信玄入道のつけこみ場なのでござる。そのようなことはなさらぬおん大将と見たればこそ、高坂一人をあの小城にこめおいたのであります。・・」

「いかさまそうであろうが、それでもおれはしとうない。尋常に立合って、おれが勝つか、甲州の古狸が勝つか、きめたい。きたないことをしては、勝っても色々と文句をつけられよう。それがおれはいやじゃ。・・」

謙信は神仏に対して深い信仰を持っていました。

「神は正義に味方すべきものである。自分が信玄と戦うのは、信玄に所領をうばわれた信濃豪族らを救うためであって、自分には領土欲なぞは寸毫もない、自分は正義のために戦うのである。だから、自分に味方なさるべきである。」

神を信じていたからこそ、謙信は幾多の捨身の戦さを繰り広げてきたのであり、その戦いぶりは、「潔癖なまでの清潔さとあふれる男性的気概」と相俟って、謙信ファンの心を魅了してやまないのでしょう。

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コメント

井上靖さんの、「しろばんば」が好きでした。
自伝的な小説ですから、井上靖さんは「お婆ちゃんっ子」だったようです。
小説の内容のほとんどは、忘れてしまいましたが、おぬい婆ちゃの得意なカレーライス、洪作の睡眠時間を気遣って、目覚まし時計を恨めしく思っていた事などが、懐かしく思い出されます。
ノーベル賞候補にもなったので、是非とも、受賞して欲しいと思っていたのですが、選に漏れてしまって残念に思ったことを覚えています。
ところで、上杉謙信は名将として有名ですが、「謙信公の戦は、常に『義戦』であった」と伝えられるように、自分を頼ってきた弱者を救済するために戦ってきた、信義に厚い武将としてのイメージを持っています。
上杉謙信は戦国時代の最強の戦術家の一人でしたが、奇妙なことに、「上杉謙信=女性説」もあるそうですね。
上杉謙信が本当に女性だったかどうかは、知る由も無いのですが、やはり、そのような憶測を生むだけ、カリスマ性があったということでしょうか。
上杉謙信は信長との同盟を破棄し、手取川の戦いにおいて勝利を収めましたが、その翌年に亡くなっています。
上杉謙信の寿命が、もっと長かったら、戦国時代の勢力図は、もっと大きく変わっていただろうし、信長も本能寺で命を落とすことも無かっただろうと思いました。

投稿: まさくん | 2006年10月 3日 (火) 21時44分

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