2017年5月 6日 (土)

高等教育の無償化と憲法改正

高等教育を無償化するには憲法改正が必要か。

この問題は憲法 第八十九条との関連で議論になることが多い。

まず 第八十九条を見てみよう。

【第89条】 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

* * *

前段はいいとして、後段の「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業」に対して、公金その他の公の財産を支出することは憲法上、認められない ― このことに留意が必要だ。

* * *

つまり「公立高校」の無償化は問題ないとしても、私学の場合は 第八十九条に言う「公の支配に属しない・・教育」との関連で議論になりうる。

これに対して例えば小嶋和司・大石眞「憲法概観」(有斐閣双書)は次のように述べる。

『この点において、学校法人等の「経常的経費」への助成措置を定めている私立学校法(昭24法270)、とくに私立学校振興助成法(昭50法61)の合憲性が、しばしば問題とされる。

これについては安易な包括的支出を抑止するための具体的措置が講じられている限り、違憲とはいえないと考えられる』(241-242頁)

清宮四朗「法律学全集3 憲法Ⅰ」(有斐閣)はもう少し慎重に次のように述べる。

『もっとも問題になるのは、「公の支配に属さない事業」とは何を意味するかである。

種々の説が行なわれているが、国又は地方公共団体の監督・指導によって、組織・運営の自主性が失われていない私の事業と解すべきであろう。

これに対し、人事、予算、事業の執行などについて、自主性を失うとみられるほどの強い監督を受けるものは「公の支配に属する事業」である。

現行法の例によると、私立学校法は、学校法人に対し補助金等の助成をなすのに関連して、所轄庁は、業務または会計に関し報告を徴すること、助成の目的に照らして不適当であると認める予算の変更を勧告すること、違法の行為をした役員の解職を勧告することができるとしている(私立学校法59条)。

また、社会福祉事業法(56条)、児童福祉法(56条の2)などにも同じような規定がある。

しかし、この程度の監督では、事業はなお自主性をもち、公の支配に属するものとはみられないから、助成との関係からみて、憲法上の疑義が残される。

憲法の規定は、公的な財政的援助に伴い、私的事業の自主性を害することを嫌って設けられたものであろうが、援助をする以上は事業の自主性は認めず、事業の自主性を認める以上は援助はしないと割り切っている憲法の態度そのものが、立法論としては、問題である。

わが国の私立学校等の経営の実情はこれに対する反省材料与えている。

慈善、教育、博愛等の事業は、事業としては、公共性の強いものであり、性質上国家も尽力すべきものである。

私人がそれを行う場合は、国家の力不足補う意味がある。

したがって、国家がそれに財政的援助を与えるのはむしろ当然であり、望ましいことである。

にもかかわらず、事業の自主性にこだわって、援助をしぶるのは、憲法自身の矛盾とみなされる』(265-266頁)

阪田雅裕編著「政府の憲法解釈」(有斐閣)には、この問題に関する国会での政府の答弁、答弁書などが収められている(237-242頁)。

長くなるので全文を記すことは控えるが、要は次の文章に要約される。

『政府は、国等が民法の規定(平成18年法第50号による改正前)に基づき設立される公益法人に対する程度の監督権限、すなわち法人設立の認可権や一般的な監督権限を有するのみでは「公の支配に属」するとはいいがたいとして、慈善・博愛の事業については社会福祉事業法などを、教育事業については私立学校法等を特別に制定し、これらの法律に基づいて国等が法人の人事や財務に対しても一定の権限を持つことが、第89条の下での公的な助成が許容されるための要件であるとしてきた』(238頁)

* * *

以上、現行憲法の下でも「公立」の高等教育無償化は問題ないし、私学であっても(解釈上疑義は残り得るものの)問題なく対応可能であると言い得る。

斯かる状況下で、高等教育無償化を実現する為に憲法を改正するというのは、国民には理解されにくいのではないか。

ほんとうにこれを実現したいのであれば、まずは「公立」の高等教育無償化を「予算措置を講じ法律で定める」のが第1歩だと思う。

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2017年5月 4日 (木)

マクロン vs. ルペン

昨日のマクロン対ルペンのTV討論。

2時間半と長いのですが、『こちら』ですべてご覧になれます(英語の訳も聞こえてきます)。

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両候補が向かい合うセッティング、そして2時間半に及ぶ長い討論など、米国の大統領選とはまただいぶおもむきが違います。

はたして有権者の審判はどちらに・・?

現地メディアは、討論終了後の調査では「63%の視聴者がマクロン優勢と感じた」と伝えているようですが・・。

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2017年5月 1日 (月)

25歳の年齢差

いずれ日本のメディアでも書かれることになるのでしょうが、フランスの大統領候補となったマクロン。

彼は39歳なのですが、7人の孫(正確には step-grandchildren)がいます(『こちら』)。

奥さんが25歳年上(現在64歳)で、結婚した時にはすでに彼女には3人の子どもがいました。

マクロンが彼女に出会ったのは彼が15歳の時(『こちら』)。

彼女は学校の先生で、彼は生徒の一人でした。

このとき彼女は別の男性(銀行員)と結婚していてすでに3人の子供がいました。

マクロンは彼女と恋におち、2006年に彼女は離婚して、その翌年に2人は結婚。

このとき彼女は54歳、マクロンは29歳でした(『こちら』)。

* * *

フランスのロスチャイルドで働いた(2008-12年)こともあるマクロン(『こちら』)。

5月7日の決選投票で勝つのは、マクロンかルペンか・・・。

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2017年4月23日 (日)

大企業からベンチャーへの転職

誰もがその名を知るような大企業で順調なビジネスマン人生を歩んでいる人。

そんな人が、産声を上げたばかりのベンチャー企業からヘッドハントされたら・・?

本日の日経ヴェリタス『Money Never Sleep』のタイトルは、『キンドルの成功支えた日本人』。

2014年からほぼ月1回のペースでこのコラムへの寄稿を続けてきましたが、早いもので今回で18回目になりました。

* * *

「ビジネスクラスのチケットを用意するので本社があるボストンまで来てほしい」

米化学大手デュポンで当時、日本法人幹部だった桑田良輔さんは、200年近い歴史をもつ デュポンで、米国人以外で初のグローバル事業の部長職に任ぜられた人。

大企業デュポンの幹部として将来を嘱望されていた桑田さん(当時43歳)が設立間もないベンチャーに転職したのはなぜだったのでしょうか。

詳しくは本日発売の日経ヴェリタス紙面をお読み頂きたいのですが、彼は米国のベンチャー企業「E Ink社」の5番目の経営幹部として同社に入社することを決断。

2001年のことでした。

CEO、CFO、CTOなど他の4人は全員米国人で、桑田さんだけが日本人だったとのことです(彼は同社の販売担当副社長に就任)。

この会社はもともと米マサチューセッツエ科大学のメディア・ラボが開発したE Inkの技術をジョセフ・ジェイコブソン博士ら中心となって、これを企業化しようとのことで作られた会社。

E Inkを利用したディスプレイは液晶よりも消費電力が少なく、視野角も広い・・。

戸外の太陽光の下でも読め、紙に印刷された書籍を読む感覚に近い・・。

しかしながら、当時この製品を日本やアジアの大手電子機器メーカーなどに持ち込んだところ、答えはどこも同じだったと言います。

「E Inkはカラー表示が出来ない(当時)。動画にも不向き。カラーの動画に適するよう な製品を開発してくれれば採用を考えてもいい」

誰もが首を横に振る中で、唯一この技術に関心を示したのが、アマゾンの創業者ジェフ・ベゾスでした。

桑田さんたちを前にしてアマゾンのジェフ・ベゾスが語った言葉とは・・?

詳しくは日経ヴェリタス紙面をご覧になって頂きたいのですが、今ではキンドルに採用され、馴染み深い存在となったE Inkディスプレイの誕生の裏にはこんな秘話があったとは・・!

私も桑田さんにお会いして直接話を聞くまでは詳しいことは知りませんでした。

ところでE Inkは現在ではキンドルのみならず、日常のあらゆる場面で使われています。

たとえばスーパーの棚にヨーグルトが並んでいるとします。

その棚の下のところに1パック150円といった液晶のような表示があると思いますが、あれは多くの場合、E Inkです。

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   (Photo by Danny Choo

液晶よりも消費電力が少なく、視野角も広いといった特性を活かしているのです。

2008年、E Ink社は台湾のファミリー企業に買収され、彼らのもとでさらに一層の業容を拡大していきます。

せっかく桑田さんという逸材がE Ink社の経営幹部にいながら、日本企業がこの米国生まれの最先端技術の商業化にからむことは結局ありませんでした。

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2017年4月11日 (火)

北朝鮮の政治日程

11日(本日) 最高人民会議

11日(本日) 金正恩委員長の党第一書記推戴5周年

15日(土曜日) 金日成国家主席生誕105周年

25日(火曜日) 北朝鮮軍創建85周年 軍事パレード

こうした政治日程が予定される中で、米空母 Carl Vinson は当初の豪州向けの進路を変更して、朝鮮半島に向うことに(25日頃到達予定)。

グーグルは米空母の展開図(どの空母がどこにいるか)を出しています(『こちら』)が、これは少し古くて2月23日現在のもの。

なおグーグルのこのマップは 『こちら』 から取ったもののようですが、オリジナルのデータの方は4月5日現在にまでupdate されています。

上記のように北朝鮮の政治的、軍事的イベントが続きますが、こうしたイベントを機に北朝鮮が更なる挑発的行為に出ることを、厳に慎むことを祈ります。

* * *

話は変わりますが、今週発売のエコノミスト誌に『拙著』の書評が載りました。

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全文は『こちら』でご覧になれます。

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2017年4月 4日 (火)

北朝鮮問題

トランプ米国大統領は、中国の習近平主席と6、7日に米フロリダ州パームビーチにあるトランプ大統領の別荘「マール・ア・ラーゴ」で首脳会談を行う。

会談を前にしてトランプ大統領は、北朝鮮問題については

「中国は北朝鮮に対して大きな影響力を持っている。中国は北朝鮮問題でわれわれを助けるか、そうしないかを決めるだろう。もし中国が手助けするなら中国にとって非常に良いことだ。もし手助けしないのなら誰にとっても良くないことだ」

とし、

「もし中国が北朝鮮問題を解決しないのなら、われわれがする」

と語ったという(日経新聞昨日夕刊および『こちら』など)。

中国は2月18日、同時点で通関手続きを済ませていない北朝鮮産石炭の輸入を17年末まで停止するとの公告を出している。

しかし今週号のエコノミスト誌によると、中国は石炭貿易に厳しい顔をする一方で、

「鉄・鉄鉱石の輸入を続けることで金正恩政権の外貨収入を一定程度保証する―。石炭に関しては初めて本格的な制裁に乗り出す構えを見せながらも、鉄・鉄鉱石についてはそんなカードを残している」(同誌82頁)

という。

国連は北朝鮮に対する制裁措置の実施状況の報告を加盟国に求めているが、アフリカ54か国のうち約8割がこれを報告していない。北朝鮮の影響力が及んでいる可能性がある。

金正男氏暗殺のニュースが報じられてから初めて、「それまでマレーシアが北朝鮮国民にビザ(査証)なしの入国を認めてきていた」ことを知った人も多いだろう(3月6日から中止;なお両国間のこれまでの関係については『こちら』を参照)。

「北朝鮮は必ずしも孤立していない。その外交力をあなどってはならない」

と上述のエコノミスト誌は報じている。

米中首脳会談の結果はどういったものになるのだろうか。4月1日のロイター・コラム(『こちら』)は、

(トランプが)「行動することが惨事の引き金になる可能性もある。だが、何もやらないままでは、さらに悲惨なものとなるかもしれない将来の紛争を招いたと、非難されることになるかもしれない」

と結んでいる。

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2017年4月 1日 (土)

ジャクリーン

昨日は公開初日に映画「ジャッキー」を観てきました。

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そもそもジャクリーン・ケネディ(ジャッキー)について興味を持ったのは、ニューヨーク・タイムズの記事を読んだときです。

2011年9月12日付の記事(『こちら』(注)ウェブ上では9月11日となっているが記事として印刷されたのは9月12日)で、

歴史家アーサー・シュレンジンジャーによるジャクリーンへのインタビューが公開されたことを報じるものでした。

夫であるケネディ大統領の死後、ジャクリーンは3度のインタビューに応じています。

ジャクリーンの娘で前駐日大使だったキャロライン・ケネディ氏によると、3度のインタビューのうちで、「もっとも貴重なもの」(『こちら』 の記事で紹介されているキャロライン・ケネディ氏によるコメント)は、1964年に行われた歴史家アーサー・シュレジンジャーによるインタビュー。

大統領の死後4か月も経っていない中で行われたもので、約8時間に及ぶインタビューのテープは公開されることなく、ずっと封印されたままでした。

そして1994年。

インタビューが行われた30年後にジャクリーンは64歳で逝去。

まもなくしてキャロライン・ケネディ氏のもとに、それまで金庫に保管されていたインタビューの書き起こしが弁護士によって届けられます。

インタビューのテープを公開するかどうか、キャロライン・ケネディ氏は迷いますが、熟慮の結果、これを公開することを決断。

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父親のジョン・F・ケネディによる大統領就任後50年にあたる2011年に公表します(冒頭のニューヨーク・タイムズ記事はこれを報じたもの)。

ABCテレビはこのときの模様を、キャロライン・ケネディ氏をスタジオに招きながら放映しています(『こちら』でご覧いただけます)。

なお、ご関心のある方は、CDの形で売られているこのインタビュー・テープを購入することも出来ます(『こちら』)。

昨日公開された映画「ジャッキー」で、ジャクリーンを演じたナタリー・ポートマンはこのテープを何度も聞きながら、ジャクリーンのイメージを膨らませていったといいます(ジャクリーンのインタビュー・テープの一部は『こちら』で試聴できます)。

これから映画「ジャッキー」をご覧になる方は、当時のジャクリーンの肉声を聞いた後で、映画を観てみるのも面白いかもしれません。

拙著にも書きましたが、ジャクリーンはこのインタビューのなかで、ド・ゴール仏大統領については「極端に自己中心的な人物」と評しています。またマーティン・ルーサー・ キング牧師については「偽善者」と辛辣なコメント。キング牧師は平和的手段によって人種差別問題の解決に貢献したのですが、その死後に女性関係の醜聞が明らかにされています。なおジャクリーンのインタビューを書籍化したものはアマゾン・ジャパンでも購入できるようです(『こちら』))。

映画についての若干の感想。

「ジャッキー」の主演女優ナタリー・ポートマンの演技について一部には「あまりにもアカデミー賞を意識しすぎた演技」との批評もあったようです(彼女は主演女優賞にノミネートはされたものの、最終的にはラ・ラ・ランドのエマ・ストーンが同賞を受賞)。

その批評の意味するところは、恐らくは「優等生的な演技」とか「細部にまで計算し尽くされた演技」といったような意味で、「遊びのない演技」といったような批判なのかもしれません。

しかしながらハーバード出の優等生であるポートマンがアカデミー賞を意識するのは当然であり、私としては映画を観ていてそのことが気になることはありませんでした。

神父と「ジャッキー」の会話など胸に響く内容のものもあり、総じて上質な映画に仕上がっていると思いました。

敢えてこの映画の批判を一つあげるとすればキャスティング。

ロバート・ケネディの役にピーター・サースガードを持ってくるは「ちょっと」と思いました。

あまりにも外観というかイメージが実物と違い過ぎてしっくり来ない・・・。

「Thirteen Days(13デイズ)」でロバート・ケネディを演じたスティーヴン・カルプの方が実物と違和感なく、観ていてストーリーの中に入り込むことが出来ました。

なおこのブログ記事のタイトルをジャッキーとせずにジャクリーンとしたのには、上記のABCテレビのインタビュー(『こちら』)で、インタビューアーも、キャロライン・ケネディ氏も、共にジャクリーンと言っているからです。

ジャクリーンの肉声はABCテレビのこのインタビューのなかでも聞くことが出来ます。

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2017年1月16日 (月)

ワクチンを考える講演会

私が理事を務めるNPO法人「医師と団塊シニア」の会で、「ワクチンを考える講演会」を催します。

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上記をクリックすると大きくなります。

学校に通う娘さんがおられるご家庭では、子宮頸がんワクチンの接種について悩むところかもしれません。

講演会では日大医学部産婦人科学分野主任教授の川名敬医師が話をします(プログラム5番目)。

関心のある方は、『こちら』 をプリント・アウトの上、必要事項を記入し、FAXにてお申込みください(参加費は1,000円)。

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2017年1月 1日 (日)

明けましておめでとうございます

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今年も宜しくお願い致します。

写真は、ポルトガルの街中のショップを撮ったもの。

ショーウィンドウ越しに民芸品の鶏人形が見えます(写真左側)。

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2016年12月20日 (火)

大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか (その4)

ビノッド・コースラが『Quora (クオーラ)』に寄稿した文章の翻訳(意訳)の第4回です。

長かった翻訳も今回で最終回です。

【以下、前回の続きです(コースラの文章を意訳したものです)】

* * *

私は人々がニューヨークタイムス紙を読んで、その記事が前提とするものは何であるのか、その書き手の主張は何であるのか、いったい何が事実で、何が意見であるのかを理解してほしいと思う。

そして出来れば、多くの記事にある思い込み(バイアス)や矛盾を見つけることが出来るようになって欲しい。

メディアがたんにニュースを報じるというのはとっくに昔のことだ。

今ではひとつの出来事に対して、それを伝えるメディアがリベラルか保守的であるかによって、同じ出来事が違う「真実」として報じられるようになっている。

メディアをこのように分析することを学ぶのはたいせつなことだ。

どの記事が統計学的に根拠がしっかりしているのか、何がそうでないのか。

書き手の見方でどの部分がバイアスがかかっていて色がそえられているのか。

学生は科学的手法について学ぶべきだ。

とくに重要なのはメンタルな要素によって答えが影響されてしまう点だ。

科学的手法とはどういうことだろう。それは制御された条件下で仮説を検証していくことだ。

この手法によってランダム性(偶然性)の影響を減少させることができるし、多くの場合、人的バイアスも減少できる。

これはひじょうに価値ある手法だ。

というのも現在ではあまりに多くの学生が確証バイアス(人は見たいものを見る)に陥っているからだ。

多くの学生が新しいものや驚くべきものに心を奪われ、物語的な誤った考えの犠牲になっているからだ。

とくにひとつのストーリーが読者に受け入れられてしまうと、それに沿った個別の要素はきちんと吟味されることなくすんなりと受け入れられてしまう傾向にある。

実際のところ、心理学によって定義された、ひじょうにたくさんのタイプのヒューマン・バイアス(偏向)がある。人間はこうしたバイアスの犠牲になってしまうのだ。

数学的なモデルとか統計学を理解することができないと、社会科学、自然科学、テクノロジー、政治的争点、健康問題といった、我々の生活における種々の大きな問題を理解することが極端に難しくなる。

私は幾つかの一般的、かついま現在重要である分野に取り組むことも提案したい。

具体的には遺伝子工学、コンピューター・サイエンス、システム・モデリング、計量経済学、言語学的モデリング、伝統的経済学、行動経済学、ゲノム学、バイオインフォマティクス(生命情報学)といった分野だ(このほかにもまだいろいろあるだろう)。

こういった分野の問題は、人々の日常の生活においてひじょうに重要な個別問題を提起するようになってきている。それも急速なスピードで。

たとえば病気になったときの医療をどうするかとか、最低賃金の意味を理解するとか、税金の経済学的側面を理解するといったことだ。

あるいは、不平等の問題だとか、移民制度の問題、気候変動といった点を理解することでもある。

米国の昆虫学者、社会生物学と生物多様性の研究者でもあるエドワード・ウィルソンは、 『The Meaning of Human Existence』という彼の著作の中で、マルチ・レベルの選択理論や数学的最適化を理解することなくして社会的行動を理解するのは難しいと述べた。

マルチ・レベルの選択理論や数学的最適化は自然界が何年にもわたる進化の繰り返しのなかで成し遂げてきたものなのだ。

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私は、「教育を受けた者すべてがそういったモデルを組むことができるようになるべきだ」と主張しているわけではない。

ただ教育を受けた者である以上、そういったモデルを質的に理解して考えることができるべきだとは思う。

こういったトピックスによって学生はたくさんの重要で今日的な情報、理論、アルゴリズムに接することができるようになるだろう。

そればかりか、こういったトピックスは、科学的プロセスを教えるうえでのプラットフォームになるかもしれない。

こうしたプロセスは科学に適応すると同時に論理的な話をするうえでも役立つ。そして論理的な会話というのが実はひどく欠けていて求められているのだ。

科学的なプロセスというのが、今日我々が社会で議論する諸問題について適応されるべきものだ。

そうすることで知的な対話が可能になる。

実際のところ「技術が次にどの方向に向くのか」なんていうことは、よく分からない。

フェイスブックやツイッター、アイフォーンなどといった重要な文化的現象や技術は2004年前には存在していなかったのだ。

しかし、たとえ特定の情報が10年以内に意味を持たなくなるとしても、現在の科学技術の最先端を理解することは、未来へのブロックを積み上げるという意味で、ひじょうに重要なことだ。

歴史や作家のフランツ・カフカが重要ではないと言っているわけではない。

歴史上の出来事に対して適用された前提条件や環境条件や規則を今日変えることで、歴史的出来事から得られる結論も変わるということを理解する方がもっと重要だということだ。

学生がある教科を選択するということは、そのために他の教科が選択できなくなるということだ。

歴史は繰り返すということを信奉している人が往々にして「今回」を考えるうえでの前提条件が違っていることを理解しそこなうというのは皮肉と言うしかない。

フィリップ・テトロック教授による徹底的な研究によれば、我々が将来予測をするうえで頼りにする専門家にはサルがダーツを投げて当てるくらいの正確性しかない。

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それゆえ「どちらかというと正しいと考えられている専門家」(これはテトロック教授の『Superforecasters』(邦題『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』早川書房)という本で定義されているのだが)を、「どのように参考にするか」が重要になってくる。

我々は日常生活においてたくさんの判断をしている。

だからこそその判断を知的に行えるようにすべきなのだ。

学生は広い知識のベースを使ってメンタルモデルを構築することが出来る。

メンタルモデルとは人間学用語で人間が実世界で何かがどのように作用するかを思考する際のプロセスを表現したものである(『こちら』)。

こうしたメンタルモデルは学生が更に勉学を進めたり職業の道を歩むうえで役立つだろう。

バークシャー・ハサウェイ社の著名な投資家のチャーリー・マンガーはメンタルモデルと彼の言うところの「初歩的・世俗的知恵」について話した。

マンガーは、経済学、数学、生物学、歴史、心理学などの多方面の学習を組み合わせることによって個々の学問の集合体よりももっと価値あるものを作り出せる、と信じる。

今日のますます複雑化する世の中でこうした多方面にまたがる思索がますます重要になるということについては私としても賛成せざるをえない。

「モデルは多方面の学問から成り立っていなければならない。というのは、世界の知恵というのはたったひとつの狭い学問領域に限定されないからだ」

マンガーはこのように説明する。

「であるからこそ、詩を教える教授は一般的に世俗的な意味においては賢くない。

彼らは頭に中にじゅうぶんなモデルがないのだ。

つまり学問領域にまたがる形のモデルを持つ必要がある。

そういったモデルとは大きく言って2つの範疇に分類されよう。

1つは時間をシミュレートする助けになるもの(つまり将来予測だ)。これによって世界がどう動いているかが分かるようになる(例えば自触媒現象のような有益な概念が分かるようになる)。

2つ目は我々の思考過程がどのようにして誤った方向に向かってしまうかを理解する助けとなるもの。

(たとえば人間が過去を再構築する時、最も生き生きした記憶や回想しやすい記憶を重要視してしまうといった可用性バイアスを理解することである)」

なおメンタルモデルには討論をする際に共通の真実を提供してくれるというメリットもあることを付け加えておきたい。

きちんと教育を受けた討論者であれば何についてお互いが賛成できないのかが分かりやすくなるのだ。

学習するうえでの基礎的な道具とある程度幅広いトピックスを把握することが出来たならば、関心ある1つ、2つの分野を掘り下げることが重要になる。

この目的のためには私としては文学や歴史よりも科学やエンジニアリングの方が良いと思う(またか!と感情的になるのは待ってほしい。すぐに説明するから)。

もちろん学生がある分野に情熱的になるのが望ましいのだけれども、そのこと自体はそんなに重要ではない。

というのは情熱というのは深く掘り下げていくうちに大きくなっていくものだからだ(と同時に情熱を持つようになる学生もいれば全然ならない学生もいるものだ)。

深く掘り下げて学ぶことの真の価値は、どうやったら掘り下げていけるかを学ぶことにある。

これさえ分かれば、その人が生きていく限りこれを使うことが出来る。学校であろうと、仕事においてであろうと、あるいは余暇であろうと。

「ダーウィンの番犬」(進化論の擁護者)として知られるトマス・ハクスリーがかつて述べたように「すべての分野」について、たとえ素人レベルでもいいから常識的なことをある程度まで知っておいたうえで、「ある特定の分野」については、深掘りしてすべてを熟知すべく努力するべきなのだ。

もっとも(以前にも述べたことだが)彼がこう言ったからといって、そのことをもってして、その言葉の内容が正しいとは限らない。

多くの場合、学生は「引用というのは、事実とは違う」ということを学ばないものだ。

もし学生が伝統的リベラル・アーツの課程で選択科目を選ぶのであれば、すでに述べたような批判的な道具との関連で教わるべきだ。

もし学生が卒業後に就職したいと望むのであれば、将来でもそういった職種が存在する分野におけるスキルを教えられるべきだ。

学生に知的な市民になって欲しいのであれば、彼らには①クリティカル・シンキング(批判的思考)、②統計学、③経済学、④技術と科学の発展をどう解するか、⑤グローバルなゲームの理論が我々にどう影響するか、といった点について理解してもらわなければならない。

国際関係論や政治学などの伝統的な専攻科目は基礎的なスキルとしては現在では時代遅れだ。

というのも、これらは学生が理解するに基本的な道具をもっていれさえすれば、簡単に修得できるからだ。

そしてこれらの科目や、歴史や美術などその他多くの伝統的なリベラル・アーツの科目は大学院レベルでも修得することができる。

繰り返すが、私は「他の科目」が重要ではないと言っているわけではない。

これらは大学院レベルでの学習に相応しいものなのだ。

ちょっとだけ歴史と文学の問題に戻りたい。クリティカル・シンキング(批判的思考)を学んだ学生がこれらの科目に取り組むというのはすばらしいことだ。

私の論点は、「これらの科目が重要ではない」ということではない。

と言うよりも、むしろ、1800年代にそうであったような形では、これらの科目はもはや「学習のスキルを開発する道具」としてじゅうぶんな形で基礎的ではなく、幅広くもないということだ。

今日必要とされるスキルのセットは変わってしまったのだ。

さらに付け加えると、これらのトピックは私が上段で定義したような思考と学習に関する基本的な規律の訓練を積んだ者には容易に修得できるものだ。

その逆は簡単ではない。

科学者が哲学者や作家になる方が、哲学者や作家が科学者になるよりも、簡単なのだ。

もし歴史や文学といった科目があまりに早くフォーカスされると、学生は自分で考えることを学ばなくなる。前提や結論、あるいは専門の哲学について疑問を投げかけることもなくなってしまう。

このことは多くのダメージ(損傷)を与えてしまう可能性がある。

今日の典型的なリベラル・アーツ教育が抱える現実から、大学側の意欲的な主張を切り離してみる。すると私としては ウィリアム・デレズウィッツの見解にどちらと言えば賛成の立場を取るようになる。

彼は1998年から2008年にかけてイェール大学で英語の教授を務めた。

そして最近『Excellent Sheep: The Miseducation of the American Elite and the Way to a Meaningful Life』(邦題『優秀なる羊たち: 米国エリート教育の失敗に学ぶ』三省堂)と題する本を書いた。

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その中でデレズウィッツは今日のリベラル・アーツ教育の現状について次のように書いている。

「少なくともエリート大学においては学問的に厳格で要求が厳しいに違いないと考える人が多いのではないか。違うのか?

しかしこれは必ずしも正しくはない。

科学においてはそれはたいてい正しいだろう。

他の学問分野においては必ずしもそうではない。

もちろん例外はあるのだが、多くの場合、教授と学生たちはある種の『不可侵条約』(これはある観察者の言葉だが)を結んでしまっているようなのだ」

今日においては学生は往々にしてそれが簡単であるという理由からリベラル・アーツを取っているのだ。

たくさんのことが重要なのだが、教育におけるもっとも重要なゴールとはいったいなにか?

繰り返しになるが、学校というのは全ての学生が将来取り組みたいと思う分野へ参加できるような機会を提供できる場である。

そこでは学生が何を追求したいかといった点のみならず、彼らが生産的に雇用されるには何が必要かといった実践的な点とか、社会の構成員としてきちんと考えることが出来るようになるといった点にも焦点が注がれる。

考える力と学ぶスキルを取り込むことによって、さらには新しい分野に取りかかれることによって得られる自信と無鉄砲さも加わりながら、学生たちが願わくばこれからの数十年間を形作るうえで役に立ってくれることを期待したいし、少なくとも、民主主義における知的な投票者になって欲しいし、仕事における生産的な参加者になってくれることを期待したいのだ。

(こうしたことを実現する上でクリエイティブ・ライティング(創造的文章力)の授業はそれが職業的なスキルとして教えられるのであれば役立つかもしれない。ただシェイクスピアのマクベスを学ぶということに私は重きを見い出せない。もちろんこうした私の見解について反対するのは勝手だが、もし議論をするのであれば、どうして見解が不一致となるのか、それをもたらす前提条件を理解したいところだ。私に反対する多くの学生はそういった前提について理解できない)。

正しい批判的な見方によって、歴史や哲学や文学は創造性を高め新しいアイデアや展望への扉を開けることに役立つだろう。

そうは言っても、これらを学ぶことは学習する上での道具を学ぶことに比べれば劣後する。

唯一例外かもしれないのは哲学をきちんとした方向性のもとに学ぶということだろう。

ここでもう一度述べておきたいのはこうしたことはトップ20%の学生には当てはまらないということだ。

彼らはどういった教育を受けるか、あるいは何を専攻するかに関係なく、こうしたスキルをすべて身に付けてしまうからだ。

音楽や文学に対する情熱は(この分野で極めて優秀なトップの学生たちはさておき)、そしてその歴史に対する情熱は、将来自分で追求するために残しておくのがもっともよい。

一方、音楽や文学の構造や理論を探求することは、音楽や文学について正しく考えることを教えるうえでの1つの方法になるかもしれない。

ある小規模の学校では音楽やスポーツなどで情熱を追求し技術をのばすことは価値あることになりうるだろう。

そして私はジュリアード音楽院といったような学校のファンだ。

しかし私の考えではこれは必要とされる一般的な教育に追加されるべきものだ。

とくに80%の普通の学生たちにとってはなおさらそうである。

言わなければならないと思うのは、一般的な教育におけるバランスの欠如だ。

これはエンジニアリング、科学、テクノロジーを勉強している学生についても言えることだ。

音楽とスポーツを別にすれば、学生はクリティカル・シンキング(批判的思考)を学ぶことで、そして上述したような有望な分野に曝されることで、最初の情熱を発見する位置につき、自分自身を理解できるようになる。少なくともこれから先に起こりうる変化に対応し、生産的な職業を得、これをキープし、そして知的市民へとなることが出来るはずだ。

最悪でも彼らはニューヨークタイムス紙が伝えたメキシコでの新しい癌治療法を受けた11人の患者の話とか、中国からの健康サプリの話などについて、どの程度信頼性がある話なのかを評価し、こういった研究の統計学的有効性を評価し、これらの処方が経済的に意味あるものなのかどうか判断できるようになるはずだ。

そして学生たちは税金と消費と均衡財政、経済成長の関係が15世紀の英国の歴史を理解する以上に分かるようになるはずだ。そしてこのことが「市民生活を準備する」(これがそもそものリベラル・アーツの目的だった)ことにつながる。

もし学生たちが言語学や音楽を学ぼうとするなら、彼らは ダニエル・レヴィティンの『This Is Your Brain on Music:The Science of a Human Obsession』(邦題『音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか』白揚社)か、もしくは言語学でそれと同等の本をまず読むべきだ。

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この本は人間の執着について教えてくれるが、同時に頭の中で数学的モデルを作ることについても教えてくれる。そしてなぜ、どのようにインド音楽がラテン音楽と違うかについても教えてくれる

(岩崎注:著者のレヴィティンはMITで電気工学をバークリー音楽大学で音楽を学び、自身もバンド活動を行い、音楽プロデューサーとして活躍後スタンフォード大学とオレゴン大学大学院に学んだ異色経歴を持つ心理学者)。

実際のところこの本やすでに紹介した他の本はリベラル・アーツの教育だけではなくて、すべての教育において必須として読まれるべきものだろう。

情熱と感情の役割は、私がかつて見た、ある一つの引用句に要約される(引用句の出所は不明)。

「人生でもっとも重要なことは心によって決められるべきであり論理で決められるべきではない」

というものだ。

他の事柄については我々は論理と一貫性を必要とする。

「何(what)」については感情と情熱に基づくものかもしれないが、「どのようにして(how)」については(そうなのだ、どのようにしての探索への道筋はときに褒賞であるのだ)、往々にして違うアプローチが必要となる。そのアプローチとは知的市民が持つべきものであり、教育が教えるべきものなのだ。

さてこれまでいろいろ述べてきたが幾つかの見方を取りこぼしているに違いない。

それゆえ私としてこの重要なトピックについて読者の方たちと貴重な対話をこれから行っていくことを楽しみにしたい。

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