宝子
「原因不明の脳疾患患者四人が入院した。」
1956年5月1日。水俣市のチッソ付属病院の医師から水俣保健所に緊急の連絡が入った。いわゆる「水俣病の公式確認」である。後の調査で、その時には既に54人の患者が発生し、うち17人が死亡していたと分かる。。。
1956年の水俣病公式確認の年に生れた坂本しのぶ。6歳のころ、しのぶはどうにか歩けるようになった。猛特訓の成果だった。。。はしの持ち方、ボタンの掛け方・・・。子ども時代の訓練をしのぶは「いややった」という。。。
(しのぶの母フジエはチッソの)社長に訴えた。「『お嫁に行きますか』と聞かれて、しのぶは『行きません』と答えた。『水俣病だから』と」。。。
「胎児性の子」たちも四十、五十歳代になった。しのぶも06年7月に五十歳を迎えた。。。子どものころ、一緒に病院に通った同世代の仲間が、次々に歩けなくなって車いす生活になっていく。。。
胎児性患者の母親は、その子を「宝子」と呼んで慈しむ。自分が食べた水銀毒を、この子が全部吸い取ってくれた。だから宝子なのだ、と。
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以上は全て、昨年末に西日本新聞社から出版された『水俣病50年』からの引用(注:一部読み易くしました)です。
昨年9月7日の私のブログでも書きましたが、同社が2006年1月から10月にかけて掲載した『水俣病五十年』のシリーズは、2006年度の新聞協会賞と「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」を受賞しました。(この本は、同紙掲載のこのシリーズを書物にまとめたものです。上記の書名部分をダブルクリックすれば、概要が分かりますので、お近くの書店で発注出来る筈です)。
2004年10月、水俣病関西訴訟で、最高裁判所は初めて国・熊本県の行政責任を認めました。にもかかわらず、環境省は「司法判断と行政判断は別」との立場を崩していません。
水俣病公式確認から50年目に当たる2006年の4月30日、水俣病慰霊の碑が完成。碑には認定された犠牲者314名の名簿が納められています。
毎日新聞社の記事によりますと、名簿に名を刻まれた犠牲者は、未だ絶えない差別を恐れた遺族の意向で全体の2割にとどまっているとのことです。
水俣病というと、「戦後の高度経済成長の犠牲」といった、ジャーナリスティック(?)的な捉え方をされることが多いのですが、これは「チッソ」という会社によって引き起こされた「人為的な犯罪」です。(1988年にチッソ元社長らに対する業務上過失致死罪での有罪が確定しています。)
再び、上記『水俣病50年』からの引用です。
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1956年5月の水俣病公式確認から3ヵ月後の8月、熊本大医学部に水俣病研究班が発足した。同年11月には「伝染病ではなく、ある種の重金属による中毒症」と重要な報告をする。
早くからチッソ水俣工場が疑われていた。しかし、原因究明は難航する。チッソは工場廃水の採取を拒んだ。提出にも応じない。「企業秘密だ」「国の許可を取ってくれ」とはねつけた。
その裏で、チッソ社内ではある実験が極秘に進んでいた。
〈ナンバー400号、雌、3.0キログラムですね〉 〈そうです〉
70年7月。熊本地裁の出張尋問。元チッソ付属病院の医師細川一=当時(68)=は、病床で質問にうなずいた。
59年7月、工場廃水をかけた餌を与える社内の実験で、「猫四〇〇号」に水俣病の症状が出たこと、廃水の危険性を会社に伝えた直後、実験を中断させられたこと。
チッソは実験結果を知りながら、外には「潔白」を訴え続けた。隠ぺいまでして。貴重な、決定的な証言だったが、表に出るのが遅かった。
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三菱自動車、パロマ・・・
昨今、こういったニュースを耳にするにつけ、私は思います。
「我々はもっと水俣病から学ばなければならない。胎児性患者の子を『宝子』と呼ぶ母親の気持ちを忘れてはならない。」
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コメント
>我々はもっと水俣病から学ばなければならない。
同感です。
残念なことに、経済発展著しい中国で、同じ問題が発生しつつあるのではないでしょうか。
投稿: 銀狐 | 2007年1月29日 (月) 00時17分