大恐慌の記憶(その6)
1929年10月24日の暗黒の木曜日。
アメリカで起きたことに対する評価が当時の日本では分かれていました。
10年に1度くらいの割合で先進諸国が経験する不況なのか、それとももっと深刻なものなのか。
本年10月23日号の週刊新潮が当時の朝日新聞の記事(というよりも見出し)を紹介していますが、
1929年10月26日『ニューヨーク株式市場大混乱』
1929年11月 2日 『総ての意味で日本へは好影響 大蔵当局談』
といった具合です。
このような中で、濱口内閣は、翌1930年1月11日、「金2分=1円=0.49875ドル」の旧平価による金解禁を断行。
更に政府は金解禁に見合った為替相場を維持するためにデフレ政策を取ります。
この結果、金解禁から半年で日本の国内卸売物価は7%下落、対米為替相場は11.1%の円高に見舞われます。
以下、週刊新潮が集めた当時の朝日新聞の記事です(カッコ内は記事の年月)。
『校門を出る若人に暗い影さす就職難 官庁も会社も皆人減らしに』(30/1/27)
『夜逃げの親達を小学校へ来て探す 米屋や酒屋に脅かされる児童 行方不明の転校続出』(30/6/21)
『牛乳飲める子は百人にタッタ3人 思いの外な全国農村の惨状』(30/6/7)
『「青春のない村」囚人以下の生活 死線にあえぐ 娘売る山形の寒村』(31/11/12)
現在再ブームとなっている小林多喜二の『蟹工船』が発表されたのも1929年です。
これを書いた4年後の1933年2月20日、小林多喜二は東京・築地警察署で特高警察の拷問を受け、29歳の若さで亡くなりました。
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