ニューヨークで書いた「はしがき」
今回の本(詳しくは『こちら』)では原稿を全て出版社に提出した後、私は別の仕事でニューヨークへ飛びました。
そして本の『はしがき』となる部分のみ、ニューヨークで書きました。
時差で朝の4時に目が覚め、ホテルの部屋でさほど明るくない手元灯を照らしながら、ホテルの便箋の上に書いたものです。
以下、その『はしがき』です。
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「貯蓄から投資へ」
「お金は銀行に預けるな」
こういった言葉に踊らされて、株式に投資したり投資信託を購入した人々― 個人投資家と称されるこうした人たちが、未曾有のハリケーンすなわち株価暴落、金融恐慌に襲われ、いま大きな被害を受けている。
夜も眠れないほど不安な人たちも少なくはないだろう。
いったい経済は今後どうなっていくのだろうか。
かのケネディ大統領の父親は、1920年代、アメリカの株式市場が活況を呈していた時に、思い切って資産を株式に投下し、富豪への道を切り開いた。
そして、その後に襲いかかってきた大恐慌直前に、すべての保有株式を売り抜けていたことで有名になった。
決断のきっかけは、ニューヨークの街頭で靴を磨いてもらっているときに訪れた。そのとき、靴磨きの少年はしきりに株の話をしていたのだ。
靴が磨き終わるまでのわずかの間に、ケネディの父親は手持ちの株の売却を考え始めたといわれている。
「こんな少年までが仕事の手を緩めて、株に浮かれている。これは危ない」。
そう気づいた彼の直感は当たり、ケネディ家は富豪のまま生き残ることとなる。
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世界中を震撼させたリーマン・ブラザーズの破綻から1ヶ月半ほどした2008年10月末。
私はニューヨークに来ていた。
10月末だというのに夏時間がまだ続いていて、ニューヨークの朝は7時になっても空がまだ薄暗い。
それでも街は出勤してくる人で賑わい、オフィスビルの8割以上には灯りがつき、中では出勤した社員が熱心にパソコンのモニターを見入っていた。
リーマン・ブラザーズの本社ビルに行ってみた。
ニューヨークの7番街745番地。
私がリーマンに在籍していた時に幾度となく訪れたビルだ。
あのころ、投資銀行はこの街の主役だった。睡眠時間を削り、顧客とはげしくやりとりをし、大規模な案件をまとめあげていく中で、経済は拡大していき、社会は豊かになっていった。そんな実感がたしかにわいてくる、刺激的な職場だった。
そんな一抹の感傷をあざ笑うかのように、ミッドタウンにあるこの高層ビルは、いつもと同じように朝コーヒーを片手に出勤してくる社員を次から次へと飲み込んでいた。
唯一の違いはビルの入り口の看板から「リーマン・ブラザーズ」の文字が消え、「バークレイズ・キャピタル」の文字に替わっていたことくらいだ。
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私がスタンフォードのビジネス・スクールに通っていたとき、現在のFRB議長バーナンキもスタンフォードで教えていた。
当時からのバーナンキの同僚で、いまもスタンフォードで教鞭を取るウルフソン教授の言葉が耳に残っている。
「バーナンキ議長とポールソン財務長官の仕事ぶりに成績をつけるとしたら、バーナンキはA。間違いなくA(ソリッドなA)だ。一方、ポールソンには、BかBマイナスしか与えられない。なぜなら彼はリーマン破綻に伴うコラテラル・ダメージ(付随する損害)を誤算したからだ」
ポールソン氏は資本主義のロジック(筋)を守り通してリーマンに引導を渡したのだろう。
しかし実のところ、事の重要性は資本主義のロジックに固執するとかしないとか、そんなレベルをすでに超えてしまっていたのだ。
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世界中で公的資金が金融機関に投入され始めた。
マルクスは、行き過ぎた資本主義は破壊力を持つ、と主張した。
ドイツでは彼の理論が再評価されつつあるとして、シュタインブリュック財務相がこう述べている。
「マルクス理論の一部はそれほど悪いものではないと、認めざるをえない」。
今後世界は、更なる地獄を見ることになるのだろうか。
それとも、こんな状況下でも失われないニューヨークの街を闊歩する人たちのチャレンジ精神に満ちた顔つきが、やがては経済を復活させるのだろうか。
本書では、「リーマン・ブラザーズ破綻の真相と仕組みがわかれば、いまの世界が、経済が見えてくる」という考えをベースに敷きながら、皆さんが明日に踏み出す一歩が少しでも確かなものになるように、考えをめぐらしていきたいと思う。
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