先週の勉啓塾は村上太胤(むらかみたいいん)薬師寺副住職をお招きして、「歴史に学ぶ~日本人の心~」と題して講演頂きました。
以下は勉啓塾幹事の方より送られてきた案内文より:
『みなさまご存知のように、薬師寺は天武天皇により680年に発願され、文武天皇の時代になって飛鳥の地に堂宇が完成した、日本を代表する名刹で、ユネスコ世界遺産にも登録されています。
法相宗の大本山であり、今もなお、学問寺として日々僧たちが研鑽と修行を重ねています。
村上太胤師は昭和22年に生まれ、龍谷大学文学部仏教学科を卒業後、今日までの長きにわたり、薬師寺で僧形生活をおくられました。
現在、副住職として、薬師寺の重責を担っておられます。
仏教をわかりやすく説いた数々の著作があり、現代社会の中で果たす仏教の役割について深い考えをお持ちです』
「薬師寺は学問寺であり檀家や墓がありません」と話し始められた村上太胤副住職のお話は大変興味深く、2時間の講演時間はあっという間に過ぎてしまいました。
私は必死でメモを取りました。
しかしこのメモを使うよりも、村上太胤副住職が著された『かたよらない こだわらない とらわれない 般若心経の力』と題する本に従って、講演のエッセンスを記してみたいと思います(青字は引用箇所でカッコ内は引用頁)。
(1)仏教の伝来
「飛鳥時代に仏教がはじめて日本に入ってきたとき、受け入れるかどうかで大論争になりました。
当時の日本人は、朝鮮や中国の仏さまを「仏」とはいわずに「蕃神」(ばんしん)と呼び、神さまの一部だという解釈をしました。
それまでの日本の神さまというのは姿がなかったのに、そこへ突然、姿のある仏さまが現れたわけですから、すごい存在として受けとめたのではないでしょうか。
蘇我氏は外国ではこの蕃神を祀っているのだということで、新しいものを受け入れようとしました。
日本古来の神道を務めていた中臣氏や物部氏は受け入れないほうがいいという立場でした。
けっきょく蘇我氏が仏教を祀るのですが、その後、疫病が流行すると、仏さまを祀った祟りではないかとお寺が焼かれたり仏像が捨てられたりしたそうです」(111~112頁)
(2)山が神さま
「日本人は昔から森、岩、木といった自然界の万物に神聖なものを感じ、畏敬の念を抱いてきました。
森羅万象です。
日本人は農耕民族ですから山や森や川、水に対しても木に対しても、神を感じながら生きてきたのです。
「大和」というのは大国主命と天照大神の荒御魂、和御魂が大きく和するところという意味だそうです。
香具山、畝傍山、耳成山の大和三山や三輪山、御蓋山は神さまの山として崇められてきました」(103~104頁)
(3)薬師寺と伊勢神宮
「昔、薬師寺や伊勢神宮が造られた頃は、神と仏は当たり前のようにいっしょに祀られていたのです。
天武天皇と持統天皇の時代に、薬師寺が造られ、天照大神が伊勢神宮に祀られました。
この時代に伊勢神宮が日本の神さまの根本・中心であるとされたわけですが、こうした日本の精神の形、宗教の骨格をつくられたのが天武天皇と持統天皇です。
天武天皇は自ら出家されて薬師寺を造られたのですが、それを引き継いだのが持統天皇です」(100頁)
「天武天皇亡き後、皇后であった持統天皇が即位され、その遺志を引き継いで690年には伊勢神宮の遷宮を初めておこなっています。
その7年後、697年には薬師寺の薬師如来さまが完成しています。
夫の遺志を継いでお伊勢さまと薬師寺を完成させるのが持統天皇の人生の大きなテーマでした。
それはまたおふたりの、神と仏をともにお祀りする、という大きな願いだったのだと思います」(101~102頁)
「精神的な日本人とは、神さま仏さまを敬うことにより、心の支えとなるものを持っている人、という意味です。
神仏習合・神仏和合といわれるように、この時代から神さまも仏さまも私たち日本人の心に宿るようになったのかもしれません」(102頁)
(4)「和をもって貴しと為す」として神道と仏教との調和をはかろうとした聖徳太子
「日本に伝わった仏教を聖徳太子が広められたわかですが、それまであった神さまと仏さまは仲よく結ばれました。
薬師寺では金堂の上に注連縄が飾ってありますし、今でも門前の八幡さまは薬師寺が管理しています。
東大寺のお水取りでは今も神事が行われます。
奈良ではまず神さまを大切にします。
薬師寺は法相宗という宗派ですが、法相宗の守護神が春日大社です。
かつては神社のなかに寺があり、寺のなかに神社がありました。
ですから、奈良では今でも神社とお寺の人たちがいっしょに集まって仲よく勉強会をしています。
今のように神さまと仏さまが別になったのは明治維新で神仏分離令が出され、廃仏毀釈で多くの仏教施設が壊されてからです。
興福寺などは藤原氏のお寺で大きかったのですが、敷地も没収され、大半は壊されてしまいました。
奈良の神社のお堂のほとんども壊されてしまいました。
そうやって明治政府の都合で神仏が強制的に分離されましたが、奈良のお寺では神仏習合のまま、今日まで千何百年も儀式や交流が続いています。
それは神や仏に見守られているという本来の日本人の心、精神文化によるのではないかと思います。
奈良や京都では神社とお寺を順番に霊場巡りするという神仏霊場会というのがあり、お伊勢さまからはじまり順番にお参りします」(98~99頁)