ロシア5人組
1860年代の帝政ロシア。
1862年にはペテルブルグ音楽院(院長:アントン・ルビンシテイン)が、そして1866年には、モスクワ音楽院(院長:ニコライ・ルビンシテイン)が設立されています。
(1862年、当時22歳のチャイコフスキーも設立されたばかりのペテルブルグ音楽院に入学)。
この2つの音楽院を設立したアントンとニコライのルビンシテイン兄弟は西欧的な音楽を求めました。
これに対して、ロシア独自の民俗性を志向したのが、ロシア5人組と称される、バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフの5人。
(ボロディン:オペラ「イーゴリ公」より)
「5人組の顕著な特徴はオリエンタリズムをよりどころとしているところである」(One hallmark of "The Five" was its reliance on orientalism)と言われています(『こちら』)。
ところで、5人組の1人、ボロディンが残したオペラ「イーゴリ公」。
彼はこれを完成させることなく他界(1887年)してしまい、リムスキー=コルサコフとグラズノフが加筆・補筆して完成させた「標準版」が普及しました(注:ほかにもいろいろなバージョンがあります)。
この作品の中の「ダッタン人(韃靼人)の踊り」はひじょうに有名な旋律(『こちら』)。
もっともこれを「ダッタン人(韃靼人)の踊り」と呼んでいるのはどうやら日本だけのようで、英語ではPolovtsian Dances (ポーロヴェッツ人の踊り)。
音楽学者、一柳富美子さんによれば、「韃靼人は13~15世紀のモンゴル系遊牧民の総称で、イーゴリ公の時代には存在が確認されていない。
イーゴリ公らを脅かしたのはトルコ系遊牧民族のポーロヴェッツ人。
いつ、どのように、日本でこの2つの遊牧民が混同されてしまったのかよく分からない」。
「韃靼人の踊り」(Polovtsian Dances)、日本ではJR東海の「いま、ふたたびの奈良へ」のCMで使われています(『こちら』)。
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