ウクライナ(その2)
ヤヌコーヴィチとユシチェンコ、さらにはユシチェンコとティモシェンコとの関係など、私のようなシロウトには分かりにくいのが、ウクライナ情勢。
その背景となる2003年のロシア・ホドルコフスキー事件にまで遡って簡単にまとめてみました。
【1】2003年10月 ボトルコフスキー事件
ホドルコフスキーはロシアの実業家。
(ホドルコフスキー)
ソ連崩壊後の民営化過程で国有財産を安く手に入れて財を成した「オリガルヒ」(新興財閥)の代表的存在。
元石油大手ユコス(ロシアで1、2位を争う石油会社だった)の社長。
反プーチン政権の立場で野党を資金的に支援。
ユコスとシブネフチ(ロシア5位の石油会社)の合併で誕生するはずだった新会社の株式40%をアメリカの石油メジャーであるエクソンモービル社に取得させる交渉をしていた。
石油の国家管理を進めるプーチン政権の反発を招いた。
2003年末、脱税容疑などで逮捕。
なお彼が社長を務めていた石油会社ユコスは2006年破産。
2013年12月19日、プーチン大統領はホドルコフスキーの恩赦について明言。
翌20日にホドルコフスキーは釈放され、ドイツ・ベルリンに到着。
釈放の舞台裏には、ゲンシャー元独外相による仲介、ドイツ政府の協力があったと観測されている。
【2】 2003年11月 グルジア・バラ革命
大規模な反政府デモが、グルジア共和国のシェワルナゼ大統領を辞任に追い込んだ。
代わって、サアカシュヴィリが大統領に就任(2004年1月)。
(サアカシュヴィリ)
サアカシュヴィリは、1992年、ウクライナのキエフ国立大学卒業後、アメリカ合衆国に渡り、1994年、コロンビア大学で法学修士号を取得。
ニューヨークの法律事務所で勤務していたが、グルジア共和国に戻り、政界入りをはたしていた。
【3】2004年12月 ウクライナ・オレンジ革命
2004年の大統領選挙は、ロシアとの関係を重要視する与党代表で首相のヤヌコーヴィチと、ヨーロッパへの帰属を唱える野党代表で前首相(当時)のユシチェンコの一騎打ちとなった。
2004年11月の開票の結果、大統領選挙におけるヤヌコーヴィチの当選が発表されると、その直後から選挙で不正があったとの抗議運動が活発化。
再投票の結果、 ユシチェンコが大統領選に当選。
なおユシチェンコは、2004年9月に顔が痘痕だらけとなった。同年12月、ウィーンの病院長が容ぼうの激変は「ダイオキシン中毒が原因」 との診断結果を発表。
これを受け、欧米メディアは、「(欧米志向の)ユシチェンコ氏が選挙前に毒殺されかかっていた」との見方を報じた。
一方で、(1)ダイオキシンで人を殺害するためには、大量の投与が必要、(2)長期間にわたり体内に残るため、証拠として容易に検出されることから、暗殺の手段としては「最悪」であるとして、暗殺未遂説に対する疑問も報じられた。
(ユシチェンコ)
2005年1月、ユシチェンコが大統領に就任。
オレンジ革命の盟友ティモシェンコを首相に任命。
(ティモシェンコ)
しかし政権内部に亀裂が生じ、2005年9月、ティモシェンコは首相を解任される(その後、2007年の議会選挙で票を伸ばして首相に返り咲く)。
【4】2010年のウクライナ大統領選挙
第1回目の投票でユシチェンコは、ヤヌコーヴィチ、ティモシェンコらに差をつけられ5位に終わり、決選投票にも残れず敗北。
決選投票はヤヌコーヴィチ、ティモシェンコの両候補の間で行われ、ヤヌコーヴィチ(親露)が勝利し、大統領に就任。
【5】2011年のティモシェンコ逮捕
ティモシェンコは2010年12月、首相時代の2009年に温室効果ガスの排出取引で日本などから得た金を年金支払いの穴埋めに流用していたとして起訴される。
また 2011年8月、ロシアとのガス契約に関する職権乱用事件を巡り、審理妨害の疑いで逮捕された。
2011年10月、キエフの地区裁判所は職権乱用を認定、禁錮7年と賠償を命ずる判決を出した。
2013年1月、ウクライナ最高検は、殺人罪で起訴。
なお、2014年2月、ヤヌコーヴィチ大統領解任後、ティモシェンコは釈放された。
【6】2013年の欧州連合との調印見送りと2014年の騒乱
2013年11月、ヤヌコーヴィチ政権は欧州連合との政治・貿易協定の調印を見送り。
親欧米派などによる反政府運動が勃発。
ソチオリンピック開催中の2014年2月、反政府勢力と政府治安部隊との衝突などで多数の死者が発生。
2月22日に最高議会はヤヌコーヴィチの大統領解任と大統領選挙の繰り上げ実施を決議するに至り、ヤヌコーヴィチはロシアに逃亡。
トゥルチノフ大統領代行とヤツェニュク首相による親欧米派の新政権が発足。
(トゥルチノフ)
(ヤツェニュク)
親欧米派の暴力的な示威行為で親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊させられたことを受けて、3月1日、ロシア上院はクリミアへの軍事介入を承認。
3月11日、クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会はクリミア独立宣言を採択。
その後、ウクライナ東部の主にロシア語が主流として使われている地域、特にドネツィク州、ハルキウ州、ルハーンシク州、オデッサ州においても、反暫定政権派と暫定政権側との間で騒乱が発生している。
【7】一連の動きをどう見るか
以上の動きをおさえたうえで、先日ご紹介した馬淵さんのインタビュー記事(『こちら』)や雑誌への投稿記事などをご覧になって頂くと理解が深まるかと思います。
ウクライナ問題を「欧米」対「ロシア」、あるいは「グローバリズム」対「ナショナリズム」といった視点で捉えると、いったいこの問題は「どこで決着するのか」といった懸念が生じてきます。
馬淵さんの言うように背景に「ナショナリズムの陣頭に立つプーチン潰し」の狙いがあるとすると、この問題はこれから先もくすぶり続けるようにも思われます。
なお昨日の朝日新聞にジェフリー・サックスへのインタビュー記事が載っていました。
1991年のソ連崩壊後のロシアの資本主義化や新しい国づくりに、ロシア政府の経済顧問として関与したサックス教授は以下のように発言。
『たしかに私はロシアを支援すべきだと考え、国家再建に関わりました。
ところがその困難な時代のロシアを、米国はじめ西側は十分に支援しなかった。
これがロシアの西側への不信感を生んだのです。
90年代、ロシアは経済的に追い詰められていました。
インフレに苦しみ、外貨もなかった。
私は負債の支払い猶予や金融支援を米国政府などに提案しましたが、受け入れられませんでした。
理由はよくわかりませんが、敵対視していたことや自国の財政負担が大きいこと、大統領選挙への影響などを考えた結果でしょう。
第1次大戦後、戦勝国は敗戦国のドイツに多額の賠償を求め、厳しくあたりました。
経済学者のケインズは、勝者が敗者を痛めつけたら、将来さらに深刻な政治問題に発展するだろうと警告したのですが、残念ながらそれは(第2次大戦という形で)現実化した。
言いたくないのですが、米国が当時のロシアを支援しなかったのは間違いでした。
これが米ロの溝を深めてしまいました。
ですから、もし現在のロシアの『製造者責任』があるとしたら、当時のブッシュ大統領でありクリントン大統領です。
西側がもっと賢明な対応をしていたら、現在のような関係にはなっていなかったでしょう』
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