不屈の春雷(2)
明治のころから日本の鉄道は、狭軌にするか広軌にするかで論争がありました。
広軌にすれば、車両あたりの輸送量は増え、走行も安定し、スピードも出ます。
ただ建設コストなどの問題もあり、広軌であらたに東京―大阪間を新規の高速鉄道で結ぶ金があるならば、それよりもまず
「地方で鉄道が通っていないところを何とかすべき」
との意見の人も多くいました。
とくに地方出身の政治家にしてみれば、とりあえず自分の選挙区まで鉄道を通してほしいとの気持ちが強かったのだと思います。
我田引水ならぬ我田引鉄との言葉も使われていたといいます。
そんななかで新幹線実現に向けて奔走した第4代国鉄総裁十河信二(1884年-1981年)。
以下は、晩年の十河の述懐です(牧久著『不屈の春雷』上巻41頁)。
「僕がやったことは、たいていみんな失敗した。
唯一つ成功したのは今の新幹線ですよ。
あれだけは成功した。
国鉄の幹部連中はだれも賛成しなかった。
政治家が票にならんからとみな反対するから、到底できないと決めちまった。
だから出来ないことに骨折ることはバカバカしい、総裁だけにひとり夢を楽しませておけばいい、とみな知らん顔していた。
僕はできないものはないんだ、努力すれば出来るんだ、ということを全国を歩いて説いて回ったんだ」
日本語の「何があっても実現させる」、
英語でいう“Get things done”は、
中国語では「有法子(ユーファーズ)」というようです。
十河信二(1884年-1981年)が好んで使っていた言葉で、
彼自身「有法子」という題名の著作も残しています。
愛媛県西条市の氷見公民館には十河が直筆で「有法子」としたためた書が掛けてあります。
「有法子」は、
「方法はある。知恵を出して成せば、成る(何事も積極的に意欲を出せ)」
という意味だそうで、十河信二自身が自分の生涯を通じて、身をもって「有法子」を示したようにも思います。
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