不屈の春雷(3)
米国に出張していて先週末日本に戻りました。
さて『不屈の春雷』の3回目。
今回で最後です。
新幹線の父として、第4代国鉄総裁十河信二(1884年-1981年)と同様に有名なのが島秀雄技師長(1901年-1998年)。
島秀雄技師長は、明治・大正の時代に広軌への改造に執念を燃やした島安次郎内閣鉄道院工作局長の長男。
彼は、桜木町駅手前での車両火災事故(1951年)の責任をとって国鉄車両局長の職を辞して住友金属工業に就職していました。
1955年、国鉄総裁に就任した十河信二は技師長に島秀雄が必要と考え、同年9月、島を総裁公邸に呼び出し、技師長就任を要請。しかし島はこれを固辞。
島に断られた十河総裁はすぐに大阪に飛び、住友金属の広田社長に島の譲り受けと島への説得を依頼。
しかし島は広田社長に対しても国鉄に戻ることを固辞。
十河は三顧の礼を尽くし、広田に何度も電話。
島に対しては、
「君の親父は広軌改築に苦労を捧げながら、遂に実現できず、恨みをのんで死んでいった。君は親の遺業を完成する義務がある」
といって口説き落とします(牧久著『不屈の春雷』下巻317-320頁)。
こうして十河総裁、島技師長(副総裁格)の二人三脚によって、東海道新幹線は実現に向かって動き出します。
そして1964年10月1日、新幹線は完成し、ついに開通となります。
しかしその開通式典には、十河も島も招待されませんでした。
1963年5月、十河は新幹線開通を見ることなく、総裁辞任を余儀なくされ、島も十河に恩義を感じ、「十河さんと一緒に辞めるのが筋である」とばかり任期半ばで辞任したからです。
なお島秀雄の息子、島隆は東海道新幹線0系の台車設計にあたり、後に東北・上越新幹線の200系の車両設計責任者となります。
島一家は、祖父・安次郎、父・秀雄、そして息子・隆と3代にわたり高速鉄道技術開発に携わってきたことになります。
なお十河信二国鉄総裁の長男は京大卒業後、三菱商事に入社。
太平洋戦争の戦火のなか資源開発のためインドネシア・ジャワ島に向かう途中で、米国の潜水艦に攻撃されて戦死。
享年34歳。
十河信二総裁は、長男の妻と長女(6歳)、長男(2歳)の3人を自宅の近くに住まわせ、終世、わが子同様に可愛がったといいます。
この長男、つまり十河信二総裁の孫が、興銀時代の私の上司、十河一元常務(1940年-2002年)。
22年間におよぶ興銀での勤務で、私は多くの上司から教えを受けましたが、
十河一元常務ほど私の中に多くのものを残してくれた人はいませんでした。
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