モブツは1965年から97年までの32年間にわたって「コンゴ民主共和国」の大統領を務めました(モブツ時代の大半、1971年~97年まで「コンゴ」は「ザイール」と呼ばれました)。
「アフリカ最凶の独裁者」と形容されたモブツ。
その彼の生涯を描いた『モブツ・セセ・セコ物語』を読みました。
著者の井上信一さんは、外務省に13年間勤務した後、日本鉱業(現JX日鉱日石金属㈱)で海外資源開発事業に従事。
この本は冒頭の数ページからアフリカ大陸(とくにキンシャサ)の情景を見事に描き出します。
まるで映画を観ているかのごとくに描かれていて、私は一気に引き込まれてしまいました。
現地滞在10年という著者ならではの成せる業なのでしょう。
ところで本書の舞台のコンゴですが、最近世銀が発表したデータ(『こちら』)によると、
「1日あたり1.25ドル(約150円)以下で暮らす住民の数は、幸いにも地球上のすべての地域で減少している。ただし、わずか1箇所の地域を除いて」
とのことです。
この「世界で唯一の例外」が、アフリカのサハラ砂漠以南の地域です(当然コンゴも含まれます)。
* * * *
本来、この地は天然の鉱物資源が豊富で、そこに住む人々も豊かになり得るポテンシャルを持っているはずです。
それがどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
この本を読んで私は初めて知ったのですが、コンゴはそもそもベルギー国王レオポルド2世の「私的な」領有地でした(1885年~1908年)。
(レオポルド2世)
「私的領有地」と言っても、実のところ、ベルギー国王は生涯一度もコンゴを訪れることはありませんでした。
ベルギーに居ながら、アフリカ大陸のこの地で得られる天然ゴムと象牙の貿易を独占し、財をなしていきます。
そして彼が次に目をつけたこと。
それはコンゴが持つ豊富な鉱物資源でした。
レオポルド2世が「自分自身の創作物」と呼んだコンゴ。
この地をそう表現したにもかかわらず、現地にただの一度たりとも足を踏み入れることさえしなかったベルギーの国王は、代理者たちを使って、「創作物」たる、この地を「開発」(と言うよりは、搾取?)していきました。
実際、国王の代理者たちは、かなり乱暴で非人道的な行為を現地で繰り広げました。
強制労働を拒否する原住民を殺戮したり、手首を切り落としたりするなど、野蛮な行為を繰り返し、原住民に恐怖を与えることで、支配を強化していったのです。
こうした極端な野蛮行為は、やがて他のヨーロッパ諸国にも伝わることとなり、国際調査委員会が調査に乗り出します。
そして調査委員会は、植民地の構造改革を勧告。
その結果、1908年、コンゴは「レオポルド2世国王の個人的植民地」から、国としての「ベルギー国」の植民地へと移行します。
* * * *
それから数十年が経ちました。
第二次世界大戦後、ナショナリズムの動きがアフリカ各地で高まっていきます。
特に1960年は「アフリカの年」と呼ばれるほど多くの独立国が誕生した年でした。
そしてコンゴもこの年、1960年の6月30日に独立を果たしました。
その立役者となったのが、パトリス・ルムンバ(1925年-61年)。
(パトリス・ルムンバ;Photo is from Wikipedia)
彼は独立の2年前に「コンゴ国民運動」を創設しました。
そして「部族間の紛争防止」と「コンゴ国民の一致団結」を声高く主張し、コンゴを独立へと導きます。
独立直前に行われた総選挙で「コンゴ国民運動」は勝利し、コンゴ独立後、ルムンバは初代首相に選出されます(大統領はカザヴブ)。
ところでベルギーは、コンゴの独立を認めはしたものの、コンゴ内にあるカタンガ州への影響力を保持しようと考えました。
カタンガ州にはダイヤモンド、銅、コバルト、ウランなどの豊富な鉱物資源があったのです。
そしてコンゴ独立からわずか10日後の7月10日。
ベルギー軍は、カタンガ州に軍事介入します。
「ベルギー国民の生命の安全を確保する」というのが、ベルギーによる軍事介入の口実でした。
これが、いわゆる「コンゴ動乱」の始まりです。
なおコンゴに触手を伸ばしたのはベルギーだけではありませんでした。
欧米の主要国(とくに米国)と、ソ連(当時)、中国は、こぞってコンゴへの影響力を高めようと種々画策しました。
ルムンバの発言が急進的で、大衆を扇動する力があることを懸念した米国(CIA)は、ルムンバが「共産主義にコンゴ支配への道を開く」(ダラスCIA長官発言)ことになるかもしれないと恐れました。
そしてコンゴ独立後2か月も経たないうちに(すなわち1960年8月には)ルムンバの暗殺を計画するようになります。
このときCIA(ローレンス・デヴリン現地支局長)が、自らの影響力をコンゴで拡大するために選んだのが、モブツでした。
モブツはCIAのサポートを得て、軍の中で地位を高めていきます。
1960年7月、ベルギー軍がコンゴのカタンガ州に軍事介入したとき、モブツはコンゴ軍の大佐で参謀本部長でした。
カタンガ州の分離独立をめぐって、ベルギー軍とコンゴ軍の対立は決定的なものとなります。
コンゴ軍はまずはカタンガ北部に進攻し、続いてカタンガ南部に進攻するはずでした。
しかしモブツ大佐(参謀本部長)は、首相のルムンバに相談することなく、コンゴ軍によるカタンガ制圧作戦プランを途中で放棄し、勝手に停戦を実行します。
そして1960年9月には、モブツはクーデターを起こし、大統領、首相、国会の機能を停止させました。
ルムンバは自宅監禁状態から抜け出し、逃亡しますが、12月にはモブツの派遣した兵士によって逮捕され、翌月(1961年1月)処刑されてしまいます。
ルムンバが35歳のときでした。
そして、これは米国のケネディ大統領就任の3日前。
大統領が就任して米国で政権交代が起きる前に、処刑をしてしまおうとの意図があったものと思われています。
ルムンバ殺害にはベルギー政府、ベルギー軍、そしてアメリカのCIAが深く関与していたと言われています(本書100-104頁、113-115頁に詳しく書かれています)。
1960年のモブツによるクーデターは、ルムンバを政権から排除し殺害することで、その役目を終えました。
大統領は引き続きカザヴブで、首相にはイレオが臨時で就き、やがてアドゥラ首相のもとで組閣が実現しました。
それから5年後。
1965年、モブツは2度目のクーデターを起こします。
今度は自らが大統領に就任し、モブツの独裁体制がスタートします。
そしてこれは実に32年間、1997年まで続くことになるのです。
* * * *
『モブツ・セセ・セコ物語』は約480頁にわたってモブツが他界するまでを書いていますが、上記ブログ記事はモブツ独裁体制のスタートまでを記したに過ぎません(本でいうと120頁まで)。
なおコンゴを独立に導いたルムンバについては、『ルムンバの叫び』(2001年公開)として映画化されています。