大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか (その2)
ビノッド・コースラというと歯に衣着せぬ発言をすることで知られています。
それだけにアメリカ社会の本音の部分を感じることもでき参考になります。
【以下、前回の続きです(コースラの文章を意訳したものです)】
コネ(Connections)は大事であり、イェールやハーバードなど多くのアイビー・リーグ大学はそこの卒業生になるということだけでも価値がある。
リベラル・アーツを学んだことによって視野が広がり、会話をする上での話題が豊富になったと信じる人たちもいる。
人文科学(humanities)は我々に知識をどう使うかを教えてくれるという人たちもいる。
あるオブザーバーは次のようにコメントした。
「人文科学(humanities)は法律家をして正当でない法律も法として守るべきかどうかを考えさせる。
エンジニアには人工知能が道徳的かどうかを熟考させる。
建築家には目的にかなった家を建てることのメリットについて立ち止まって考えさせるようになる。
医者には乏しい医療資源をある患者には使い別の患者には使わないことをどう考えるかについて教えることが出来よう。
これらが人文科学(humanities)の役割なのだ。
これはSTEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics)や医学などの高度専門職的教育の補完的役割を果たすものなのだ」
私の考えでは、創造性やヒューマニズム、そして倫理は教えるのがひじょうに難しい。
一方で、定量的(数的)で論理的、科学的に考えることをベースとする教育を受けてさえいれば、リベラル・アーツで教えられるとされる世俗的なこととか、たくさんの技能(スキル)は比較的簡単に自己修得できるものだ。
科学や工学(エンジニアリング)の教育では、批判的に考える技術、創造性、ひらめき、イノベーション(革新)、包括的思考を身に付ける上でじゅうぶんな訓練が出来ないと主張する人もいる。
これに反して、私は、より良いリベラル・サイエンス教育による科学的、論理的基礎はそれらの能力の幾つかないしは全てをもっと一貫性のある方法で修得せしめると主張したい。
「ロジカルであることで、リニア・プログラミング(線型計画法)の問題を解けるようになるかもしれないが、真に創造的解決能力を必要とする職業に就くには不十分だ」とする主張には、私はなんらのメリットも見いだせない。
リベラル・アーツ・カリキュラムの旧バージョンは、今よりも複雑でなかった18世紀の欧州中心の世界、そして思索と余暇にフォーカスしたエリート主義的教育においては、理にかなったものだった。
しかし20世紀以降においては、リベラル・アーツは(目的としていたものとは違って)、単に大学を卒業する上で「容易なカリキュラムである」との性格付けで進化を遂げるようになった。
そしてこのことこそが、学生がリベラル・アーツを専攻する上で、恐らくはもっとも大きな理由となったのだ。
私は今日の典型的なリベラル・アーツの学位で、もっと完全な思考力を身に付けられるとは思わない。
むしろリベラル・アーツは思考の次元を制限すると思う。
というのは、リベラル・アーツ専攻者は、①数学的モデルに慣れていない(きちんとした教育を受けて来なかった人々に欠けるのは思考の次元性であるように私には思える)、②逸話やデータに関する統計的理解に乏しい(リベラル・アーツはこの点について本来は有効に機能するはずだったが実際には極めて不十分だ)。
人文科学(humanities)専攻者は、たくさんの情報をどうやって消化するかといった点を含む、種々の分析スキルを教わると主張しているらしいが、私が彼らと接した経験からすると、概して彼らのこうしたスキルはまったくもって乏しいレベルである。
恐らくは意図としてはそうした分析スキルを身につけさせたいというものなのだろう。
しかし現実はそういった理想とは著しくかけ離れている(もっとも上位20%には当てはまらないというのは先に述べた通りだ)。
多くの大学においてリベラル・アーツのプログラムは勤労者にとって実践的なものではない。
金融だろうとメディアだろうと、あるいは経営目標を定めたり管理・実行する職だろうと、必要なスキルは、戦略的思考法とか、トレンド(傾向、趨勢)を見つけることとか、大局的な問題解決といったものなのだが、私の目から見れば、これらはすべて、今日の学位が提供するよりも、もっとずっとたくさんの定量的(数的)準備を必要とする。
リベラル・アーツ教育で得られるはずのそうした技術は、実はもっと定量的(数的)手法を学ぶことによって、もっとよく学ぶことが出来る。
エンジニアリングから医学までの多くの職業訓練プログラムにも、同じスキルが必要であり、これらのスキルを発展させ幅の広いものにさせて、彼らの訓練プログラムに加える必要がある。
しかし、もし私がリベラル・アーツか理工系教育のどちらかしか選択できないのであれば、私は理工系教育の方を選ぶだろう。たとえエンジニアになるつもりが全くなくとも、あるいはまだどんな職に就きたいか分からなかったとしても。
実際のところ私はエンジニアとして働いたことはほとんどないが、自分の仕事の上では、これまで次のようなスキルを必要としてきたし、これを使ってきた。
①リスクの評価、②能力の進化(投資対象者が能力を進化させられるか)、③イノベーション(革新)、④人物評価、⑤創造性とビジョンの体系化(vision formulation)
だからと言って、目標設定、デザイン、創造性が重要でないと言っているわけではない。
実際これらの項目は医学やエンジニアリングなどの高度専門職的学位を得る上で必要なものとして加えられるべきだ。こういった分野でのキャリアを歩む上で、現在では不十分な形でしか教えられていないからだ。
ますます多くの分野が非常に数量的になってきている。その結果、文学や歴史を専攻した人たちにとって将来好きな職業を選ぶことや、民主主義社会において知的な市民であることがどんどん難しくなっている。
数学、統計学、科学は独学では修得がやっかいで、だからこそ学校教育はそれらを学ぶのに最適な場所なのだ。一方、多くのリベラル・アーツのコースは大学卒業後でも修得可能だ。科学的思考や論理、クリティカル・シンキングのトレーニングがなければ、対話や理解ははるかに難しいものとなる。
今日のリベラル・アーツ教育の問題点を示す良い具体例がある。
著名な作家であるマルコム・グラドウェル(歴史学専攻でニューヨーカー誌の執筆を務めたこともある)が書いたことなのだが、彼は ストーリーはその正確さや妥当性よりも大事であると(本人は深く気づきもしないで)述べている。
マルコム・グラドウェルは2009年に『Outliers(アウトライヤーズ)』という本を著した(邦題『天才! 成功する人々の法則』講談社)。
ニュー・リパブリック誌はこの本の最終章を「どんな形のクリティカル・シンキング(批判的思考)にも影響されない、クリティカル・シンキングとは全くもって無縁である」と評した。
と同時に、同誌は、「グラッドウェルは“完璧な逸話は実態のないルール(つまり虚偽)さえ証明する” と信じている」と述べた。
グラッドウェルは著作『What the Dog Saw and Other Adventures』(邦題『犬は何を見たのか THE NEW YORKER 傑作選』講談社)で線型代数学の指標である eigenvalue (固有値) のことを間違って“Igon Value”と記してしまった。
このことを取り上げて、ハーバード大学の教授で作家でもあるスティーブン・ピンカーは彼の専門知識のなさを批判する。
「私はこれを“アイゴン値(Igon Value)問題”と呼ぶだろう。ある題材に関して書き手が得た教育がたんに専門家にインタビューすることで得られたものである場合、彼は陳腐で曖昧、もしくは完全に間違った一般論を提供しがちである」
スティーブン・ピンカーはこう言って批判したのだ。(訳者注:これはグラッドウェルのIgon Value問題として、その後、各方面で引用されることとなった。『こちら』を参照)。
不幸なことに今日のメディア人のあまりに多くが同様に、専門的内容を解釈するに足りる教育を受けてきていない。
ストーリーテリング(物語を話すこと)や引用が、正しい事実をわかりやすく伝えるのに役立つのではなく、逆に誤解を招く要因になってしまう。
グラッドウェルは 『天才! 成功する人々の法則』 の中で1万時間の法則を提唱した。
ビートルズであれ、ビル・ゲイツであれ、一流・天才と呼ばれる人は、例外なく1万時間の練習に打ち込んでいるというものだ。
彼の1万時間の法則は本当かもしれないし、そうでないかもしれないが、その思考の質のせいで私は彼の主張にまったくと言っていいほど重きを置かない。
マルコム・グラッドウェルの例一つでリベラル・アーツ学位が有効でないことを証明するわけではない。
しかし私は多くの人文科学(humanities)卒業生と接してきたが、彼らの多くは(人の話に基づいたり逸話に基づいて判断したりして)間違った考え方をしてしまっているように見受けられる。
実際、エリートが読むとされる雑誌であるニューヨーカー誌やアトランティック誌に書かれた 多くの書き手による記事に矛盾点があることを私は気づくのだが、グラッドウェルは(意図的にそうしたのではないのだろうが)気づかなかった。
もちろんこのことも統計的に有効な結論ではない。しかし一人の人間の数百、数千の具体例から得られた印象だ。
私は時々このような出版物の記事をからかい気分で読む。①間違った議論、②根拠のない結論、③単なる物語を事実に基づく断言と混同すること、④インタビューからの引用を事実と誤認すること、⑤統計の誤用などをもとに、書き手の思考の質を判断するのだ。
こうしたことと同様なことなのだが、説得力のある思考の欠如は、悪い決定、じゅうぶんな情報の無いレトリック、そして原子力や遺伝子組換え作物などのようなトピックに関する批判的思考の欠如につながる。
残念ながらますます複雑化する世界では、多くのリベラル・アーツ専攻者が、たとえエリート大学の者たちであっても 論理的スキルを身に付けることができていないようになってしまった。単純な個人の財務計画から所得格差のような社会問題に至るまで、リスクとリスク評価のテーマは、殆どのリベラル・アーツ専攻者によって、あまりに情けないレベルでしか理解も考慮もされていない。
それゆえ私は悲観的な気分になってしまう。
エンジニアリングやSTEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics;日本でいう“理系”)の 専攻者がこれらのトピックに向いていると言っているわけではない。
そもそもSTEMや高度専門職的教育の目的はそこにないのだから。
リベラル・アーツ教育の目的はスティーブン・ピンカーが言うところの“自己構築”である。これに付け加えて、私は“技術的にも大きく進化する21世紀に通用するような” 「自己構築」 としたい。
キャリア・パスのために、あるいはキャリアにとってプラスになるからといって、新しい分野について学ぶことは、以前より難しくなっている。
伝統的なヨーロッパのリベラル・アーツ教育は少数者そしてエリートのためのものだった。
今日でもそれがゴールだろうか。
人々は学位を取るために、何年もの年数を費やし、ちょっとした財産を使ってしまって、あるいは生涯にわたるような借金を抱えて込んでしまう。こうして得た学位は単なる知的市民になることに貢献するだけではじゅうぶんではあるまい。雇用されやすい能力が身に付くことがひとつの評価基準であるべきなのだ。
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