大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか (その3)
プログラミング言語Javaの開発舞台となったサン・マイクロシステムズ。
サン・マイクロはJavaだけではなくワークステーションの会社としても有名です(すでに2010年、オラクルに買収されてしまっています)。
ビノッド・コースラはそのサン・マイクロを創業し、その後ベンチャーキャピタル会社クライナー・パーキンス・コーフィールド・アンド・バイヤーズ社のゼネラルパートナーとして多くのベンチャーの設立支援にかかわってきました。
その後2004年には自らのベンチャーキャピタル会社コースラ・ベンチャーズを起業。
現在米国でもっとも著名なベンチャー・キャピタリストであり、フォーブス誌によると彼の個人資産は1900億円にのぼるのだとか(『こちら』)。
実は彼と私はスタンフォードのビジネススクールで同級生でした。
その彼が『Quora (クオーラ)』という米国版Q&Aサイトの質問『大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか』に答えて文章を寄稿したので、これを意訳し始めたのですが、この翻訳(意訳)の作業が思いのほかたいへんです。
しかしふと気がつきました。
意訳するのもたいへんなのですが、これを書いた彼の方はその数倍もたいへんだったに違いない。
私のところにも実は『Quora (クオーラ)』からは時折メールで、『こんな質問についてあなたは回答できるに違いないから回答を寄せてくれ』という依頼がきます。
最近の例ですと:
・『東京の大学でテクノロジーを学びたい。奨学金を取るにはどうしたらいいか』(おそらくは海外の方の質問なのでしょう。原文は英語です)
残念ながら私は答えることが出来ていませんが、コースラに限らず、日ごろビジネスの最前線で1分1秒を惜しんで働いている人たちが、この種のQ&Aサイトに多大な時間を割いて回答を載せているというのは本当にびっくりします。
というのはこの種の作業はまったくの無償でボランティアだからです。
コースラのように数十時間(単なる私の推測ですが)を割いて回答を寄せる。
そういう人たちが結構いるところにアメリカ社会の凄さを感じます。
それを思うと、私としては訳すのがたいへんだなどとは言っていられない気がしてきます。
* * * * *
ところで、すでに424,500人の人が、コースラのこの書き込み(『こちら』)を閲覧しています。
このうち賛成票を投じた人は今日現在1,102名(全員記名式なので、どんな人が賛成票を投じたのかが分かります)。
そして36人の人が彼の文章に対してコメントを寄せています(総じて賛成のコメントが多いのですが、テキサスの大学で経済学を専攻した人は、『自分が学んだリベラル・アーツのカリキュラムでは自然科学と数学も必須だった。私はそこで経済学や微積分、コンピューター・サイエンスを学んだ』といったコメントを寄せたりしています)。
ということで、前置きはこのくらいにします。
【以下、前回の続きです(コースラの文章を意訳したものです)】
ウィキペディアには次のように記されている。
『リベラル・アーツは、古典・古代の社会で自由人として市民生活に積極的に参加するのに不可欠な科目や技能とみなされたものである。
市民生活に積極的に参加するとはどういうことか。
それは例えば(古代ギリシャでは)公的な場での議論に参加する、法廷で自己弁護する、陪審員ができる、そして最も大事なこととして軍務につく、というようなことだ。
文法、論理(ロジック)、 レトリック(修辞学)はリベラル・アーツの中核を為す。
と同時に、算術、地理、音楽(楽理)、そして天文学も(核とは言わないまでも)重要な位置を占める』
古典・古代に固執しない今日の理想的リストは、私の考えによれば、もっと広い分野に及び、もっと優先順位化されるべきだと思う。
理想主義者と、今日のリベラル・アーツ教育が「自由人として市民生活に積極的に参加する」との目標を達成すると考える者は、どちらも間違っている。
その意図するところはともかくとして、リベラル・アーツ教育が目標を達成するべくきちんと機能すると考える点でまちがえているのだ。
我々がもっと人間主義的(ヒューマニスティック)教育を必要としている点には同意するが、現在のカリキュラムに賛同するかしないかをヒューマニスティックの意味を定義せずに決めることは難しい。
リベラル・アーツ教育は、全ての市民が社会に参加するために身につけるべきクリティカル・シンキング(批判的思考)、論理、科学的なプロセスを本当に教えてくるのだろうか。
リベラル・アーツ教育は、多様な信条や状況、嗜好や前提条件下で、知的な対話や意思決定を可能にするのだろうか。
我々は既に知っていることを学生に教えるべきだろうか、それとも学生たちがもっと発見していくための準備をしてやるべきだろうか。
「人民の、人民による、人民のための政治」をうたったリンカーンによるゲティスバーク演説を暗記することは素晴らしい。
だが究極的には意味がないことだ。
歴史を理解することは興味深いし有益でさえある。
しかしエコノミスト誌のトピックスほど実質的価値はない。
科学的に思考しクリティカル・シンキング(批判的思考)技術をもって大きな問題を解くことのできる学生は世の中を変える潜在力がある(最低でもより給料の高い職につける。)
2014年のアメリカにおいては、警官によって何ら罪のない黒人が殺害されるなど、黒人に対する差別的扱いが社会的に大きな問題となった。
そこでこうした差別に対抗するために、#blacklivesmatter (#黒人の命は大事だ)というハッシュタグが広く使われ、これがこの年を代表する英単語に選ばれた。
科学的に思考しクリティカル・シンキング(批判的思考)技術をもつ人たちは、#blacklivesmatter (#黒人の命は大事だ)といった問題や、収入格差、気候変動などのトピックについて、①トランプ的な大衆扇動的手法(“トランピズム”)に陥ったり、②感情的になったり、③偏見に基づく歪んだ見方をせずに、議論できる。
それもそのはず、いくつかの研究が指し示すように、就職している大学卒業生の半数が実際は学位など必要のない仕事についているのだ。
彼らの学位は雇用主に対しての彼らの価値を高めていないのだ(ただしそれだけが学位の目的というわけではないが)。
もっというと、たとえ理想的なカリキュラムを組めたとしても 殆どのリベラル・アーツ専攻者は大抵そうしない(理想的なカリキュラムを取らない)のだ。
ゴールが専門家になる教育を受けることでないのなら総合的教育でなければならない。
そして大学の学位を敬意に値するものにしようとするなら、総合教育ではもっと多くの必須課程が学ばれなければならない、と私は思う。
もちろん違う意見を持つのも結構だ。
だがもしそうした教育のゴールが知的市民であったり、雇用されるのにふさわしい能力を持つ者になることであるということに同意するのであれば、正解かどうか試してみることができよう。
今の所 私のこれまでの議論は、専門的、職業訓練的、あるいは技術的カリキュラムに関連する事項をほとんど除いている。
またコストの面から大学教育を受けることが出来るのかどうかとか、受けた場合に負ってしまう債務の問題といった、重要かつ現実的な問題についても無視してきた。
それらの問題はもっと就職しやすいタイプの教育の話と結びついてしまうので。
私が失敗だと言及している点は2つだ。
(1)リベラル・アーツ教育は現代社会の変わりゆく必要性に対応していない
(2)リベラル・アーツ教育がたんに履修するに簡単なカリキュラムになってしまっているという点だ。
とくに(2)の点は、要求が厳しい専攻を避け、単位を取りやすい課目を選んで、社交的な学生時代を送りたいと考えている学生にとって、リベラル・アーツは安易なカリキュラムになってしまっているという現実だ。
今日の多くの学生にとって、価値ある授業よりも単位を取りやすい授業を選ぶことがなされている。
あるいは価値ある授業よりも自分に利益をもたらすような授業を選ぶことがなされてしまっている。
もしそんなことはないと考える人がいるなら、私は自分自身の経験から言って、これは今日の大半の学生について言える真実であると断言したい(もちろん全員がそうであるという訳ではないが)。
すべての科目がすべての学生に適しているわけではない。
しかしどの科目を選択するかは、学生が興味の対象や能力を鑑みながらそのニーズに従って決められるべきであり、学生時代を安易に過ごすために単位を取りやすい科目を選ぶといったことがなされるべきではない。
「好きなことを追い求めなさい。将来仕事に就けなかったり、ホームレスになる確率が高まるけれどね」と言うのは、私が滅多にしないアドバイスだ。つまり私としては賛成できない(トップ20%の学生やボトム20%の学生は別だが)。
情熱を持つ、つまり好きなことを勉強するというのは、もっと後になってからにしなさい。もちろん情熱を持つことが大事ではないと言うわけではないが。
私が言いたいのは、今日の多くのリベラル・アーツの専攻者は、スタンフォードやイェールのようなエリート大学でも(トップ20%の学生は例外として)自分の意見を厳密な意味で弁護出来ないし、説得力のある議論を展開したり、論理的に議論する能力に欠けているということなのだ。
スティーブン・ピンカーはマルコム・グラドウェルを論駁したが、そのことに加えて、ピンカーは、教育はどのようにあるべきかについて素晴らしいはっきりとした考えを持っていて、The New Republic誌に書いているのだが、彼によれば、「教育された人間は宇宙が誕生してからの130億年の先史と物理学の基本原則、人間の脳と身体を含む生物界を支配している基本法則を知っておくべきだ」
さらに、
「教育された人間は、農業の始まりから現在までの人類の歴史の流れを把握しておくべきだ」
「教育された人間は、人類の文化の多様性と、主要な信念や価値のシステムにさらされるべきだ」
「教育された人間は、人類史上の歴史を形作った出来事について、繰り返したくない失敗も含めて知っておくべきだ」
「教育された人間は、民主的統治と法の支配の背後にある原則を理解すべきだ」
「教育された人間は、小説や芸術の理解や鑑賞の仕方を知るべきだ。審美的喜びのためにまた人の有り様を考えるうえでの刺激になるように」
私は彼の考えに同意するが、このカリキュラムが次に述べるアイディアよりも重要であるかどうかはわからない。
次に述べる技術があれば、ピンカーの言う教育とのギャップ(相違)は、大学を終えてからでも埋めることが可能だ。
それでは専門家を目指していないエリートの教育は何を伴うべきだろうか
学校でじゅうぶんな時間が取れるのであれば全てをやろう、と私は提案するだろう。
悲しむべきことに、それは現実的ではない。
だから我々は基本的な必要事項についての優先リストが必要だ。
と言うのも我々がカバーするものには、いずれにも限られた可能な時間ではできないことがあるからだ。
限られた時間内で、何を教えるのが良いのか。
そして何が独学で自習時間に、あるいは卒業後学習として、または大学院での研究課題としてより学びやすいだろうか。
新しいリベラル・サイエンスという概念のもとで、私が提案するカリキュラムによって、学生は次のものを習得するだろう。
【1】 学習と分析の基本的なツール。
主にクリティカル・シンキング(批判的思考)、科学的な思考手順や方法論、そして問題解決と多様性へのアプローチ
【2】 幾つかの一般的なトピックに関する知識、今後数十年の間に遭遇するかもしれない諸問題を概念的にモデル化したり判断する上で必要となる論理学や、数学、統計学といったような基礎的知識
【3】 これらのツールがどの領域で使えるかを理解し、必要あれば領域を変更し、そして関心ある領域を掘り下げるスキル
【4】 競争の激しいグローバル経済において仕事に就く準備、あるいは①学生の将来の方向性や、②興味、さらには③どこにチャンスがあるかといった点に関する「不確実性」に備える準備
【5】 民主主義社会において、きちんとした情報を持ち、知的に判断できる市民であり続ける、つまり社会の一員として常に進化し最先端の情報を保持し続けることへの準備
重要な科目としては、経済学、統計学、数学、論理学、システム・モデリング、心理学、コンピューター・プログラミング、 そして現在の(歴史的なものではなく現在の)文化の進化を含むべきである。
文化の進化とは次のような質問を扱うべきだ。
例えば、
なぜラップ音楽が流行るのか
なぜISIS(イスラム国)が出現したのか
なぜ自爆テロをするような人が出てきたのか
なぜ「カーダシアン家のお騒がせセレブライフ」のようなテレビ番組が流行るのか
なぜトランプのような人が登場してきたのか
なぜ環境保護主義が台頭してきたのか。いったい何が重要で何がそうでないのか
これらの質問に対する答えは専門家の意見かそれとも何か別に妥当な答えがあるのだろうか。
さらに、文学や歴史などの人文科学分野は、今日の物理学がそうであるように、選択科目(必須ではない)になるべきだ。
(もちろん他の科学と同じように私は、基礎的物理学は必須科目にすべきだと提唱する)。
そして我々が直面している多くの社会問題についても熟考する力が必要だ(私の考えでは現在の軟弱なリベラル・アーツのカリキュラムではこの点に関する準備が出来ていない)。
想像してみて欲しい。各学期の必須科目授業で全ての生徒がエコノミスト誌やテクノロジー・レヴュー誌のような幅広い出版物からのトピックスを分析したり、討論したりする様を。
そして想像してみて欲しい。コアの(核となる)カリキュラムでいま言ったような議論をするのに必要なコア(核)となる技術を教える様子を。
そうしたカリキュラムは物理的、政治的、文化的、技術的な世界がどのように機能するのかをより現実的状況に合わせて理解する基礎を与えてくれるばかりでなく、世界を理解するうえでの直観力を伝えてくれる。
そしてそれは学生がいずれ経済活動に積極的に参加するうえでの準備になるだろう。
心理学を理解するのはひじょうに重要だ。
なぜか。それは人間の行動や人と人との係り合いは重要で、更に今後においても重要であり続けるからだ。
メディア、政治家、広告主や広告宣伝業者はときに誤った情報を提供し、彼らの思惑で提供する情報を選ぶ。よって彼らが提供するものに対して、それを無批判に受け入れないという免疫力を持っている人たちが私は好きだ。
というのはメディア、政治、広告などの専門家たちは人の脳の偏りにつけ込むことを学んでいるからだ。
この点については経済学と認知科学を統合した行動ファイナンス理論及びプロスペクト理論で有名なダニエル・カーネマン(ノーベル経済学受賞者)が著書『Thinking, Fast and Slow』(邦題『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』 早川書房)でよく論じている。
またダン・ガードナーの『The Science of Fear』の中でもよく論じられている。
私は歴史を理解する方法を教えたいとは思うが、歴史の知識を得るために時間を使って教えたいとは思わない。
というのは、歴史の知識を得るというのは学校を卒業した後でも出来るからだ。
【以下、次回(その4)に続く】
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