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2016年12月20日 (火)

大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか (その4)

ビノッド・コースラが『Quora (クオーラ)』に寄稿した文章の翻訳(意訳)の第4回です。

長かった翻訳も今回で最終回です。

【以下、前回の続きです(コースラの文章を意訳したものです)】

* * *

私は人々がニューヨークタイムス紙を読んで、その記事が前提とするものは何であるのか、その書き手の主張は何であるのか、いったい何が事実で、何が意見であるのかを理解してほしいと思う。

そして出来れば、多くの記事にある思い込み(バイアス)や矛盾を見つけることが出来るようになって欲しい。

メディアがたんにニュースを報じるというのはとっくに昔のことだ。

今ではひとつの出来事に対して、それを伝えるメディアがリベラルか保守的であるかによって、同じ出来事が違う「真実」として報じられるようになっている。

メディアをこのように分析することを学ぶのはたいせつなことだ。

どの記事が統計学的に根拠がしっかりしているのか、何がそうでないのか。

書き手の見方でどの部分がバイアスがかかっていて色がそえられているのか。

学生は科学的手法について学ぶべきだ。

とくに重要なのはメンタルな要素によって答えが影響されてしまう点だ。

科学的手法とはどういうことだろう。それは制御された条件下で仮説を検証していくことだ。

この手法によってランダム性(偶然性)の影響を減少させることができるし、多くの場合、人的バイアスも減少できる。

これはひじょうに価値ある手法だ。

というのも現在ではあまりに多くの学生が確証バイアス(人は見たいものを見る)に陥っているからだ。

多くの学生が新しいものや驚くべきものに心を奪われ、物語的な誤った考えの犠牲になっているからだ。

とくにひとつのストーリーが読者に受け入れられてしまうと、それに沿った個別の要素はきちんと吟味されることなくすんなりと受け入れられてしまう傾向にある。

実際のところ、心理学によって定義された、ひじょうにたくさんのタイプのヒューマン・バイアス(偏向)がある。人間はこうしたバイアスの犠牲になってしまうのだ。

数学的なモデルとか統計学を理解することができないと、社会科学、自然科学、テクノロジー、政治的争点、健康問題といった、我々の生活における種々の大きな問題を理解することが極端に難しくなる。

私は幾つかの一般的、かついま現在重要である分野に取り組むことも提案したい。

具体的には遺伝子工学、コンピューター・サイエンス、システム・モデリング、計量経済学、言語学的モデリング、伝統的経済学、行動経済学、ゲノム学、バイオインフォマティクス(生命情報学)といった分野だ(このほかにもまだいろいろあるだろう)。

こういった分野の問題は、人々の日常の生活においてひじょうに重要な個別問題を提起するようになってきている。それも急速なスピードで。

たとえば病気になったときの医療をどうするかとか、最低賃金の意味を理解するとか、税金の経済学的側面を理解するといったことだ。

あるいは、不平等の問題だとか、移民制度の問題、気候変動といった点を理解することでもある。

米国の昆虫学者、社会生物学と生物多様性の研究者でもあるエドワード・ウィルソンは、 『The Meaning of Human Existence』という彼の著作の中で、マルチ・レベルの選択理論や数学的最適化を理解することなくして社会的行動を理解するのは難しいと述べた。

マルチ・レベルの選択理論や数学的最適化は自然界が何年にもわたる進化の繰り返しのなかで成し遂げてきたものなのだ。

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私は、「教育を受けた者すべてがそういったモデルを組むことができるようになるべきだ」と主張しているわけではない。

ただ教育を受けた者である以上、そういったモデルを質的に理解して考えることができるべきだとは思う。

こういったトピックスによって学生はたくさんの重要で今日的な情報、理論、アルゴリズムに接することができるようになるだろう。

そればかりか、こういったトピックスは、科学的プロセスを教えるうえでのプラットフォームになるかもしれない。

こうしたプロセスは科学に適応すると同時に論理的な話をするうえでも役立つ。そして論理的な会話というのが実はひどく欠けていて求められているのだ。

科学的なプロセスというのが、今日我々が社会で議論する諸問題について適応されるべきものだ。

そうすることで知的な対話が可能になる。

実際のところ「技術が次にどの方向に向くのか」なんていうことは、よく分からない。

フェイスブックやツイッター、アイフォーンなどといった重要な文化的現象や技術は2004年前には存在していなかったのだ。

しかし、たとえ特定の情報が10年以内に意味を持たなくなるとしても、現在の科学技術の最先端を理解することは、未来へのブロックを積み上げるという意味で、ひじょうに重要なことだ。

歴史や作家のフランツ・カフカが重要ではないと言っているわけではない。

歴史上の出来事に対して適用された前提条件や環境条件や規則を今日変えることで、歴史的出来事から得られる結論も変わるということを理解する方がもっと重要だということだ。

学生がある教科を選択するということは、そのために他の教科が選択できなくなるということだ。

歴史は繰り返すということを信奉している人が往々にして「今回」を考えるうえでの前提条件が違っていることを理解しそこなうというのは皮肉と言うしかない。

フィリップ・テトロック教授による徹底的な研究によれば、我々が将来予測をするうえで頼りにする専門家にはサルがダーツを投げて当てるくらいの正確性しかない。

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それゆえ「どちらかというと正しいと考えられている専門家」(これはテトロック教授の『Superforecasters』(邦題『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』早川書房)という本で定義されているのだが)を、「どのように参考にするか」が重要になってくる。

我々は日常生活においてたくさんの判断をしている。

だからこそその判断を知的に行えるようにすべきなのだ。

学生は広い知識のベースを使ってメンタルモデルを構築することが出来る。

メンタルモデルとは人間学用語で人間が実世界で何かがどのように作用するかを思考する際のプロセスを表現したものである(『こちら』)。

こうしたメンタルモデルは学生が更に勉学を進めたり職業の道を歩むうえで役立つだろう。

バークシャー・ハサウェイ社の著名な投資家のチャーリー・マンガーはメンタルモデルと彼の言うところの「初歩的・世俗的知恵」について話した。

マンガーは、経済学、数学、生物学、歴史、心理学などの多方面の学習を組み合わせることによって個々の学問の集合体よりももっと価値あるものを作り出せる、と信じる。

今日のますます複雑化する世の中でこうした多方面にまたがる思索がますます重要になるということについては私としても賛成せざるをえない。

「モデルは多方面の学問から成り立っていなければならない。というのは、世界の知恵というのはたったひとつの狭い学問領域に限定されないからだ」

マンガーはこのように説明する。

「であるからこそ、詩を教える教授は一般的に世俗的な意味においては賢くない。

彼らは頭に中にじゅうぶんなモデルがないのだ。

つまり学問領域にまたがる形のモデルを持つ必要がある。

そういったモデルとは大きく言って2つの範疇に分類されよう。

1つは時間をシミュレートする助けになるもの(つまり将来予測だ)。これによって世界がどう動いているかが分かるようになる(例えば自触媒現象のような有益な概念が分かるようになる)。

2つ目は我々の思考過程がどのようにして誤った方向に向かってしまうかを理解する助けとなるもの。

(たとえば人間が過去を再構築する時、最も生き生きした記憶や回想しやすい記憶を重要視してしまうといった可用性バイアスを理解することである)」

なおメンタルモデルには討論をする際に共通の真実を提供してくれるというメリットもあることを付け加えておきたい。

きちんと教育を受けた討論者であれば何についてお互いが賛成できないのかが分かりやすくなるのだ。

学習するうえでの基礎的な道具とある程度幅広いトピックスを把握することが出来たならば、関心ある1つ、2つの分野を掘り下げることが重要になる。

この目的のためには私としては文学や歴史よりも科学やエンジニアリングの方が良いと思う(またか!と感情的になるのは待ってほしい。すぐに説明するから)。

もちろん学生がある分野に情熱的になるのが望ましいのだけれども、そのこと自体はそんなに重要ではない。

というのは情熱というのは深く掘り下げていくうちに大きくなっていくものだからだ(と同時に情熱を持つようになる学生もいれば全然ならない学生もいるものだ)。

深く掘り下げて学ぶことの真の価値は、どうやったら掘り下げていけるかを学ぶことにある。

これさえ分かれば、その人が生きていく限りこれを使うことが出来る。学校であろうと、仕事においてであろうと、あるいは余暇であろうと。

「ダーウィンの番犬」(進化論の擁護者)として知られるトマス・ハクスリーがかつて述べたように「すべての分野」について、たとえ素人レベルでもいいから常識的なことをある程度まで知っておいたうえで、「ある特定の分野」については、深掘りしてすべてを熟知すべく努力するべきなのだ。

もっとも(以前にも述べたことだが)彼がこう言ったからといって、そのことをもってして、その言葉の内容が正しいとは限らない。

多くの場合、学生は「引用というのは、事実とは違う」ということを学ばないものだ。

もし学生が伝統的リベラル・アーツの課程で選択科目を選ぶのであれば、すでに述べたような批判的な道具との関連で教わるべきだ。

もし学生が卒業後に就職したいと望むのであれば、将来でもそういった職種が存在する分野におけるスキルを教えられるべきだ。

学生に知的な市民になって欲しいのであれば、彼らには①クリティカル・シンキング(批判的思考)、②統計学、③経済学、④技術と科学の発展をどう解するか、⑤グローバルなゲームの理論が我々にどう影響するか、といった点について理解してもらわなければならない。

国際関係論や政治学などの伝統的な専攻科目は基礎的なスキルとしては現在では時代遅れだ。

というのも、これらは学生が理解するに基本的な道具をもっていれさえすれば、簡単に修得できるからだ。

そしてこれらの科目や、歴史や美術などその他多くの伝統的なリベラル・アーツの科目は大学院レベルでも修得することができる。

繰り返すが、私は「他の科目」が重要ではないと言っているわけではない。

これらは大学院レベルでの学習に相応しいものなのだ。

ちょっとだけ歴史と文学の問題に戻りたい。クリティカル・シンキング(批判的思考)を学んだ学生がこれらの科目に取り組むというのはすばらしいことだ。

私の論点は、「これらの科目が重要ではない」ということではない。

と言うよりも、むしろ、1800年代にそうであったような形では、これらの科目はもはや「学習のスキルを開発する道具」としてじゅうぶんな形で基礎的ではなく、幅広くもないということだ。

今日必要とされるスキルのセットは変わってしまったのだ。

さらに付け加えると、これらのトピックは私が上段で定義したような思考と学習に関する基本的な規律の訓練を積んだ者には容易に修得できるものだ。

その逆は簡単ではない。

科学者が哲学者や作家になる方が、哲学者や作家が科学者になるよりも、簡単なのだ。

もし歴史や文学といった科目があまりに早くフォーカスされると、学生は自分で考えることを学ばなくなる。前提や結論、あるいは専門の哲学について疑問を投げかけることもなくなってしまう。

このことは多くのダメージ(損傷)を与えてしまう可能性がある。

今日の典型的なリベラル・アーツ教育が抱える現実から、大学側の意欲的な主張を切り離してみる。すると私としては ウィリアム・デレズウィッツの見解にどちらと言えば賛成の立場を取るようになる。

彼は1998年から2008年にかけてイェール大学で英語の教授を務めた。

そして最近『Excellent Sheep: The Miseducation of the American Elite and the Way to a Meaningful Life』(邦題『優秀なる羊たち: 米国エリート教育の失敗に学ぶ』三省堂)と題する本を書いた。

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その中でデレズウィッツは今日のリベラル・アーツ教育の現状について次のように書いている。

「少なくともエリート大学においては学問的に厳格で要求が厳しいに違いないと考える人が多いのではないか。違うのか?

しかしこれは必ずしも正しくはない。

科学においてはそれはたいてい正しいだろう。

他の学問分野においては必ずしもそうではない。

もちろん例外はあるのだが、多くの場合、教授と学生たちはある種の『不可侵条約』(これはある観察者の言葉だが)を結んでしまっているようなのだ」

今日においては学生は往々にしてそれが簡単であるという理由からリベラル・アーツを取っているのだ。

たくさんのことが重要なのだが、教育におけるもっとも重要なゴールとはいったいなにか?

繰り返しになるが、学校というのは全ての学生が将来取り組みたいと思う分野へ参加できるような機会を提供できる場である。

そこでは学生が何を追求したいかといった点のみならず、彼らが生産的に雇用されるには何が必要かといった実践的な点とか、社会の構成員としてきちんと考えることが出来るようになるといった点にも焦点が注がれる。

考える力と学ぶスキルを取り込むことによって、さらには新しい分野に取りかかれることによって得られる自信と無鉄砲さも加わりながら、学生たちが願わくばこれからの数十年間を形作るうえで役に立ってくれることを期待したいし、少なくとも、民主主義における知的な投票者になって欲しいし、仕事における生産的な参加者になってくれることを期待したいのだ。

(こうしたことを実現する上でクリエイティブ・ライティング(創造的文章力)の授業はそれが職業的なスキルとして教えられるのであれば役立つかもしれない。ただシェイクスピアのマクベスを学ぶということに私は重きを見い出せない。もちろんこうした私の見解について反対するのは勝手だが、もし議論をするのであれば、どうして見解が不一致となるのか、それをもたらす前提条件を理解したいところだ。私に反対する多くの学生はそういった前提について理解できない)。

正しい批判的な見方によって、歴史や哲学や文学は創造性を高め新しいアイデアや展望への扉を開けることに役立つだろう。

そうは言っても、これらを学ぶことは学習する上での道具を学ぶことに比べれば劣後する。

唯一例外かもしれないのは哲学をきちんとした方向性のもとに学ぶということだろう。

ここでもう一度述べておきたいのはこうしたことはトップ20%の学生には当てはまらないということだ。

彼らはどういった教育を受けるか、あるいは何を専攻するかに関係なく、こうしたスキルをすべて身に付けてしまうからだ。

音楽や文学に対する情熱は(この分野で極めて優秀なトップの学生たちはさておき)、そしてその歴史に対する情熱は、将来自分で追求するために残しておくのがもっともよい。

一方、音楽や文学の構造や理論を探求することは、音楽や文学について正しく考えることを教えるうえでの1つの方法になるかもしれない。

ある小規模の学校では音楽やスポーツなどで情熱を追求し技術をのばすことは価値あることになりうるだろう。

そして私はジュリアード音楽院といったような学校のファンだ。

しかし私の考えではこれは必要とされる一般的な教育に追加されるべきものだ。

とくに80%の普通の学生たちにとってはなおさらそうである。

言わなければならないと思うのは、一般的な教育におけるバランスの欠如だ。

これはエンジニアリング、科学、テクノロジーを勉強している学生についても言えることだ。

音楽とスポーツを別にすれば、学生はクリティカル・シンキング(批判的思考)を学ぶことで、そして上述したような有望な分野に曝されることで、最初の情熱を発見する位置につき、自分自身を理解できるようになる。少なくともこれから先に起こりうる変化に対応し、生産的な職業を得、これをキープし、そして知的市民へとなることが出来るはずだ。

最悪でも彼らはニューヨークタイムス紙が伝えたメキシコでの新しい癌治療法を受けた11人の患者の話とか、中国からの健康サプリの話などについて、どの程度信頼性がある話なのかを評価し、こういった研究の統計学的有効性を評価し、これらの処方が経済的に意味あるものなのかどうか判断できるようになるはずだ。

そして学生たちは税金と消費と均衡財政、経済成長の関係が15世紀の英国の歴史を理解する以上に分かるようになるはずだ。そしてこのことが「市民生活を準備する」(これがそもそものリベラル・アーツの目的だった)ことにつながる。

もし学生たちが言語学や音楽を学ぼうとするなら、彼らは ダニエル・レヴィティンの『This Is Your Brain on Music:The Science of a Human Obsession』(邦題『音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか』白揚社)か、もしくは言語学でそれと同等の本をまず読むべきだ。

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この本は人間の執着について教えてくれるが、同時に頭の中で数学的モデルを作ることについても教えてくれる。そしてなぜ、どのようにインド音楽がラテン音楽と違うかについても教えてくれる

(岩崎注:著者のレヴィティンはMITで電気工学をバークリー音楽大学で音楽を学び、自身もバンド活動を行い、音楽プロデューサーとして活躍後スタンフォード大学とオレゴン大学大学院に学んだ異色経歴を持つ心理学者)。

実際のところこの本やすでに紹介した他の本はリベラル・アーツの教育だけではなくて、すべての教育において必須として読まれるべきものだろう。

情熱と感情の役割は、私がかつて見た、ある一つの引用句に要約される(引用句の出所は不明)。

「人生でもっとも重要なことは心によって決められるべきであり論理で決められるべきではない」

というものだ。

他の事柄については我々は論理と一貫性を必要とする。

「何(what)」については感情と情熱に基づくものかもしれないが、「どのようにして(how)」については(そうなのだ、どのようにしての探索への道筋はときに褒賞であるのだ)、往々にして違うアプローチが必要となる。そのアプローチとは知的市民が持つべきものであり、教育が教えるべきものなのだ。

さてこれまでいろいろ述べてきたが幾つかの見方を取りこぼしているに違いない。

それゆえ私としてこの重要なトピックについて読者の方たちと貴重な対話をこれから行っていくことを楽しみにしたい。

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