今年の会社
NVIDIA社については9月に日経CNBC日経ヴェリタストークでも詳しくお話しし(『こちら』)、その後11月のブログ(『こちら』)でも取り上げました。
そのNVIDIA社が、米国版「ヤフー・ファイナンス」が選ぶ『今年の会社』(Company of the Year)に選ばれました。
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ビノッド・コースラが『Quora (クオーラ)』に寄稿した文章の翻訳(意訳)の第4回です。
長かった翻訳も今回で最終回です。
【以下、前回の続きです(コースラの文章を意訳したものです)】
* * *
私は人々がニューヨークタイムス紙を読んで、その記事が前提とするものは何であるのか、その書き手の主張は何であるのか、いったい何が事実で、何が意見であるのかを理解してほしいと思う。
そして出来れば、多くの記事にある思い込み(バイアス)や矛盾を見つけることが出来るようになって欲しい。
メディアがたんにニュースを報じるというのはとっくに昔のことだ。
今ではひとつの出来事に対して、それを伝えるメディアがリベラルか保守的であるかによって、同じ出来事が違う「真実」として報じられるようになっている。
メディアをこのように分析することを学ぶのはたいせつなことだ。
どの記事が統計学的に根拠がしっかりしているのか、何がそうでないのか。
書き手の見方でどの部分がバイアスがかかっていて色がそえられているのか。
学生は科学的手法について学ぶべきだ。
とくに重要なのはメンタルな要素によって答えが影響されてしまう点だ。
科学的手法とはどういうことだろう。それは制御された条件下で仮説を検証していくことだ。
この手法によってランダム性(偶然性)の影響を減少させることができるし、多くの場合、人的バイアスも減少できる。
これはひじょうに価値ある手法だ。
というのも現在ではあまりに多くの学生が確証バイアス(人は見たいものを見る)に陥っているからだ。
多くの学生が新しいものや驚くべきものに心を奪われ、物語的な誤った考えの犠牲になっているからだ。
とくにひとつのストーリーが読者に受け入れられてしまうと、それに沿った個別の要素はきちんと吟味されることなくすんなりと受け入れられてしまう傾向にある。
実際のところ、心理学によって定義された、ひじょうにたくさんのタイプのヒューマン・バイアス(偏向)がある。人間はこうしたバイアスの犠牲になってしまうのだ。
数学的なモデルとか統計学を理解することができないと、社会科学、自然科学、テクノロジー、政治的争点、健康問題といった、我々の生活における種々の大きな問題を理解することが極端に難しくなる。
私は幾つかの一般的、かついま現在重要である分野に取り組むことも提案したい。
具体的には遺伝子工学、コンピューター・サイエンス、システム・モデリング、計量経済学、言語学的モデリング、伝統的経済学、行動経済学、ゲノム学、バイオインフォマティクス(生命情報学)といった分野だ(このほかにもまだいろいろあるだろう)。
こういった分野の問題は、人々の日常の生活においてひじょうに重要な個別問題を提起するようになってきている。それも急速なスピードで。
たとえば病気になったときの医療をどうするかとか、最低賃金の意味を理解するとか、税金の経済学的側面を理解するといったことだ。
あるいは、不平等の問題だとか、移民制度の問題、気候変動といった点を理解することでもある。
米国の昆虫学者、社会生物学と生物多様性の研究者でもあるエドワード・ウィルソンは、 『The Meaning of Human Existence』という彼の著作の中で、マルチ・レベルの選択理論や数学的最適化を理解することなくして社会的行動を理解するのは難しいと述べた。
マルチ・レベルの選択理論や数学的最適化は自然界が何年にもわたる進化の繰り返しのなかで成し遂げてきたものなのだ。
私は、「教育を受けた者すべてがそういったモデルを組むことができるようになるべきだ」と主張しているわけではない。
ただ教育を受けた者である以上、そういったモデルを質的に理解して考えることができるべきだとは思う。
こういったトピックスによって学生はたくさんの重要で今日的な情報、理論、アルゴリズムに接することができるようになるだろう。
そればかりか、こういったトピックスは、科学的プロセスを教えるうえでのプラットフォームになるかもしれない。
こうしたプロセスは科学に適応すると同時に論理的な話をするうえでも役立つ。そして論理的な会話というのが実はひどく欠けていて求められているのだ。
科学的なプロセスというのが、今日我々が社会で議論する諸問題について適応されるべきものだ。
そうすることで知的な対話が可能になる。
実際のところ「技術が次にどの方向に向くのか」なんていうことは、よく分からない。
フェイスブックやツイッター、アイフォーンなどといった重要な文化的現象や技術は2004年前には存在していなかったのだ。
しかし、たとえ特定の情報が10年以内に意味を持たなくなるとしても、現在の科学技術の最先端を理解することは、未来へのブロックを積み上げるという意味で、ひじょうに重要なことだ。
歴史や作家のフランツ・カフカが重要ではないと言っているわけではない。
歴史上の出来事に対して適用された前提条件や環境条件や規則を今日変えることで、歴史的出来事から得られる結論も変わるということを理解する方がもっと重要だということだ。
学生がある教科を選択するということは、そのために他の教科が選択できなくなるということだ。
歴史は繰り返すということを信奉している人が往々にして「今回」を考えるうえでの前提条件が違っていることを理解しそこなうというのは皮肉と言うしかない。
フィリップ・テトロック教授による徹底的な研究によれば、我々が将来予測をするうえで頼りにする専門家にはサルがダーツを投げて当てるくらいの正確性しかない。
それゆえ「どちらかというと正しいと考えられている専門家」(これはテトロック教授の『Superforecasters』(邦題『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』早川書房)という本で定義されているのだが)を、「どのように参考にするか」が重要になってくる。
我々は日常生活においてたくさんの判断をしている。
だからこそその判断を知的に行えるようにすべきなのだ。
学生は広い知識のベースを使ってメンタルモデルを構築することが出来る。
メンタルモデルとは人間学用語で人間が実世界で何かがどのように作用するかを思考する際のプロセスを表現したものである(『こちら』)。
こうしたメンタルモデルは学生が更に勉学を進めたり職業の道を歩むうえで役立つだろう。
バークシャー・ハサウェイ社の著名な投資家のチャーリー・マンガーはメンタルモデルと彼の言うところの「初歩的・世俗的知恵」について話した。
マンガーは、経済学、数学、生物学、歴史、心理学などの多方面の学習を組み合わせることによって個々の学問の集合体よりももっと価値あるものを作り出せる、と信じる。
今日のますます複雑化する世の中でこうした多方面にまたがる思索がますます重要になるということについては私としても賛成せざるをえない。
「モデルは多方面の学問から成り立っていなければならない。というのは、世界の知恵というのはたったひとつの狭い学問領域に限定されないからだ」
マンガーはこのように説明する。
「であるからこそ、詩を教える教授は一般的に世俗的な意味においては賢くない。
彼らは頭に中にじゅうぶんなモデルがないのだ。
つまり学問領域にまたがる形のモデルを持つ必要がある。
そういったモデルとは大きく言って2つの範疇に分類されよう。
1つは時間をシミュレートする助けになるもの(つまり将来予測だ)。これによって世界がどう動いているかが分かるようになる(例えば自触媒現象のような有益な概念が分かるようになる)。
2つ目は我々の思考過程がどのようにして誤った方向に向かってしまうかを理解する助けとなるもの。
(たとえば人間が過去を再構築する時、最も生き生きした記憶や回想しやすい記憶を重要視してしまうといった可用性バイアスを理解することである)」
なおメンタルモデルには討論をする際に共通の真実を提供してくれるというメリットもあることを付け加えておきたい。
きちんと教育を受けた討論者であれば何についてお互いが賛成できないのかが分かりやすくなるのだ。
学習するうえでの基礎的な道具とある程度幅広いトピックスを把握することが出来たならば、関心ある1つ、2つの分野を掘り下げることが重要になる。
この目的のためには私としては文学や歴史よりも科学やエンジニアリングの方が良いと思う(またか!と感情的になるのは待ってほしい。すぐに説明するから)。
もちろん学生がある分野に情熱的になるのが望ましいのだけれども、そのこと自体はそんなに重要ではない。
というのは情熱というのは深く掘り下げていくうちに大きくなっていくものだからだ(と同時に情熱を持つようになる学生もいれば全然ならない学生もいるものだ)。
深く掘り下げて学ぶことの真の価値は、どうやったら掘り下げていけるかを学ぶことにある。
これさえ分かれば、その人が生きていく限りこれを使うことが出来る。学校であろうと、仕事においてであろうと、あるいは余暇であろうと。
「ダーウィンの番犬」(進化論の擁護者)として知られるトマス・ハクスリーがかつて述べたように「すべての分野」について、たとえ素人レベルでもいいから常識的なことをある程度まで知っておいたうえで、「ある特定の分野」については、深掘りしてすべてを熟知すべく努力するべきなのだ。
もっとも(以前にも述べたことだが)彼がこう言ったからといって、そのことをもってして、その言葉の内容が正しいとは限らない。
多くの場合、学生は「引用というのは、事実とは違う」ということを学ばないものだ。
もし学生が伝統的リベラル・アーツの課程で選択科目を選ぶのであれば、すでに述べたような批判的な道具との関連で教わるべきだ。
もし学生が卒業後に就職したいと望むのであれば、将来でもそういった職種が存在する分野におけるスキルを教えられるべきだ。
学生に知的な市民になって欲しいのであれば、彼らには①クリティカル・シンキング(批判的思考)、②統計学、③経済学、④技術と科学の発展をどう解するか、⑤グローバルなゲームの理論が我々にどう影響するか、といった点について理解してもらわなければならない。
国際関係論や政治学などの伝統的な専攻科目は基礎的なスキルとしては現在では時代遅れだ。
というのも、これらは学生が理解するに基本的な道具をもっていれさえすれば、簡単に修得できるからだ。
そしてこれらの科目や、歴史や美術などその他多くの伝統的なリベラル・アーツの科目は大学院レベルでも修得することができる。
繰り返すが、私は「他の科目」が重要ではないと言っているわけではない。
これらは大学院レベルでの学習に相応しいものなのだ。
ちょっとだけ歴史と文学の問題に戻りたい。クリティカル・シンキング(批判的思考)を学んだ学生がこれらの科目に取り組むというのはすばらしいことだ。
私の論点は、「これらの科目が重要ではない」ということではない。
と言うよりも、むしろ、1800年代にそうであったような形では、これらの科目はもはや「学習のスキルを開発する道具」としてじゅうぶんな形で基礎的ではなく、幅広くもないということだ。
今日必要とされるスキルのセットは変わってしまったのだ。
さらに付け加えると、これらのトピックは私が上段で定義したような思考と学習に関する基本的な規律の訓練を積んだ者には容易に修得できるものだ。
その逆は簡単ではない。
科学者が哲学者や作家になる方が、哲学者や作家が科学者になるよりも、簡単なのだ。
もし歴史や文学といった科目があまりに早くフォーカスされると、学生は自分で考えることを学ばなくなる。前提や結論、あるいは専門の哲学について疑問を投げかけることもなくなってしまう。
このことは多くのダメージ(損傷)を与えてしまう可能性がある。
今日の典型的なリベラル・アーツ教育が抱える現実から、大学側の意欲的な主張を切り離してみる。すると私としては ウィリアム・デレズウィッツの見解にどちらと言えば賛成の立場を取るようになる。
彼は1998年から2008年にかけてイェール大学で英語の教授を務めた。
そして最近『Excellent Sheep: The Miseducation of the American Elite and the Way to a Meaningful Life』(邦題『優秀なる羊たち: 米国エリート教育の失敗に学ぶ』三省堂)と題する本を書いた。
その中でデレズウィッツは今日のリベラル・アーツ教育の現状について次のように書いている。
「少なくともエリート大学においては学問的に厳格で要求が厳しいに違いないと考える人が多いのではないか。違うのか?
しかしこれは必ずしも正しくはない。
科学においてはそれはたいてい正しいだろう。
他の学問分野においては必ずしもそうではない。
もちろん例外はあるのだが、多くの場合、教授と学生たちはある種の『不可侵条約』(これはある観察者の言葉だが)を結んでしまっているようなのだ」
今日においては学生は往々にしてそれが簡単であるという理由からリベラル・アーツを取っているのだ。
たくさんのことが重要なのだが、教育におけるもっとも重要なゴールとはいったいなにか?
繰り返しになるが、学校というのは全ての学生が将来取り組みたいと思う分野へ参加できるような機会を提供できる場である。
そこでは学生が何を追求したいかといった点のみならず、彼らが生産的に雇用されるには何が必要かといった実践的な点とか、社会の構成員としてきちんと考えることが出来るようになるといった点にも焦点が注がれる。
考える力と学ぶスキルを取り込むことによって、さらには新しい分野に取りかかれることによって得られる自信と無鉄砲さも加わりながら、学生たちが願わくばこれからの数十年間を形作るうえで役に立ってくれることを期待したいし、少なくとも、民主主義における知的な投票者になって欲しいし、仕事における生産的な参加者になってくれることを期待したいのだ。
(こうしたことを実現する上でクリエイティブ・ライティング(創造的文章力)の授業はそれが職業的なスキルとして教えられるのであれば役立つかもしれない。ただシェイクスピアのマクベスを学ぶということに私は重きを見い出せない。もちろんこうした私の見解について反対するのは勝手だが、もし議論をするのであれば、どうして見解が不一致となるのか、それをもたらす前提条件を理解したいところだ。私に反対する多くの学生はそういった前提について理解できない)。
正しい批判的な見方によって、歴史や哲学や文学は創造性を高め新しいアイデアや展望への扉を開けることに役立つだろう。
そうは言っても、これらを学ぶことは学習する上での道具を学ぶことに比べれば劣後する。
唯一例外かもしれないのは哲学をきちんとした方向性のもとに学ぶということだろう。
ここでもう一度述べておきたいのはこうしたことはトップ20%の学生には当てはまらないということだ。
彼らはどういった教育を受けるか、あるいは何を専攻するかに関係なく、こうしたスキルをすべて身に付けてしまうからだ。
音楽や文学に対する情熱は(この分野で極めて優秀なトップの学生たちはさておき)、そしてその歴史に対する情熱は、将来自分で追求するために残しておくのがもっともよい。
一方、音楽や文学の構造や理論を探求することは、音楽や文学について正しく考えることを教えるうえでの1つの方法になるかもしれない。
ある小規模の学校では音楽やスポーツなどで情熱を追求し技術をのばすことは価値あることになりうるだろう。
そして私はジュリアード音楽院といったような学校のファンだ。
しかし私の考えではこれは必要とされる一般的な教育に追加されるべきものだ。
とくに80%の普通の学生たちにとってはなおさらそうである。
言わなければならないと思うのは、一般的な教育におけるバランスの欠如だ。
これはエンジニアリング、科学、テクノロジーを勉強している学生についても言えることだ。
音楽とスポーツを別にすれば、学生はクリティカル・シンキング(批判的思考)を学ぶことで、そして上述したような有望な分野に曝されることで、最初の情熱を発見する位置につき、自分自身を理解できるようになる。少なくともこれから先に起こりうる変化に対応し、生産的な職業を得、これをキープし、そして知的市民へとなることが出来るはずだ。
最悪でも彼らはニューヨークタイムス紙が伝えたメキシコでの新しい癌治療法を受けた11人の患者の話とか、中国からの健康サプリの話などについて、どの程度信頼性がある話なのかを評価し、こういった研究の統計学的有効性を評価し、これらの処方が経済的に意味あるものなのかどうか判断できるようになるはずだ。
そして学生たちは税金と消費と均衡財政、経済成長の関係が15世紀の英国の歴史を理解する以上に分かるようになるはずだ。そしてこのことが「市民生活を準備する」(これがそもそものリベラル・アーツの目的だった)ことにつながる。
もし学生たちが言語学や音楽を学ぼうとするなら、彼らは ダニエル・レヴィティンの『This Is Your Brain on Music:The Science of a Human Obsession』(邦題『音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか』白揚社)か、もしくは言語学でそれと同等の本をまず読むべきだ。
この本は人間の執着について教えてくれるが、同時に頭の中で数学的モデルを作ることについても教えてくれる。そしてなぜ、どのようにインド音楽がラテン音楽と違うかについても教えてくれる
(岩崎注:著者のレヴィティンはMITで電気工学をバークリー音楽大学で音楽を学び、自身もバンド活動を行い、音楽プロデューサーとして活躍後スタンフォード大学とオレゴン大学大学院に学んだ異色経歴を持つ心理学者)。
実際のところこの本やすでに紹介した他の本はリベラル・アーツの教育だけではなくて、すべての教育において必須として読まれるべきものだろう。
情熱と感情の役割は、私がかつて見た、ある一つの引用句に要約される(引用句の出所は不明)。
「人生でもっとも重要なことは心によって決められるべきであり論理で決められるべきではない」
というものだ。
他の事柄については我々は論理と一貫性を必要とする。
「何(what)」については感情と情熱に基づくものかもしれないが、「どのようにして(how)」については(そうなのだ、どのようにしての探索への道筋はときに褒賞であるのだ)、往々にして違うアプローチが必要となる。そのアプローチとは知的市民が持つべきものであり、教育が教えるべきものなのだ。
さてこれまでいろいろ述べてきたが幾つかの見方を取りこぼしているに違いない。
それゆえ私としてこの重要なトピックについて読者の方たちと貴重な対話をこれから行っていくことを楽しみにしたい。
プログラミング言語Javaの開発舞台となったサン・マイクロシステムズ。
サン・マイクロはJavaだけではなくワークステーションの会社としても有名です(すでに2010年、オラクルに買収されてしまっています)。
ビノッド・コースラはそのサン・マイクロを創業し、その後ベンチャーキャピタル会社クライナー・パーキンス・コーフィールド・アンド・バイヤーズ社のゼネラルパートナーとして多くのベンチャーの設立支援にかかわってきました。
その後2004年には自らのベンチャーキャピタル会社コースラ・ベンチャーズを起業。
現在米国でもっとも著名なベンチャー・キャピタリストであり、フォーブス誌によると彼の個人資産は1900億円にのぼるのだとか(『こちら』)。
実は彼と私はスタンフォードのビジネススクールで同級生でした。
その彼が『Quora (クオーラ)』という米国版Q&Aサイトの質問『大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか』に答えて文章を寄稿したので、これを意訳し始めたのですが、この翻訳(意訳)の作業が思いのほかたいへんです。
しかしふと気がつきました。
意訳するのもたいへんなのですが、これを書いた彼の方はその数倍もたいへんだったに違いない。
私のところにも実は『Quora (クオーラ)』からは時折メールで、『こんな質問についてあなたは回答できるに違いないから回答を寄せてくれ』という依頼がきます。
最近の例ですと:
・『東京の大学でテクノロジーを学びたい。奨学金を取るにはどうしたらいいか』(おそらくは海外の方の質問なのでしょう。原文は英語です)
残念ながら私は答えることが出来ていませんが、コースラに限らず、日ごろビジネスの最前線で1分1秒を惜しんで働いている人たちが、この種のQ&Aサイトに多大な時間を割いて回答を載せているというのは本当にびっくりします。
というのはこの種の作業はまったくの無償でボランティアだからです。
コースラのように数十時間(単なる私の推測ですが)を割いて回答を寄せる。
そういう人たちが結構いるところにアメリカ社会の凄さを感じます。
それを思うと、私としては訳すのがたいへんだなどとは言っていられない気がしてきます。
* * * * *
ところで、すでに424,500人の人が、コースラのこの書き込み(『こちら』)を閲覧しています。
このうち賛成票を投じた人は今日現在1,102名(全員記名式なので、どんな人が賛成票を投じたのかが分かります)。
そして36人の人が彼の文章に対してコメントを寄せています(総じて賛成のコメントが多いのですが、テキサスの大学で経済学を専攻した人は、『自分が学んだリベラル・アーツのカリキュラムでは自然科学と数学も必須だった。私はそこで経済学や微積分、コンピューター・サイエンスを学んだ』といったコメントを寄せたりしています)。
ということで、前置きはこのくらいにします。
【以下、前回の続きです(コースラの文章を意訳したものです)】
ウィキペディアには次のように記されている。
『リベラル・アーツは、古典・古代の社会で自由人として市民生活に積極的に参加するのに不可欠な科目や技能とみなされたものである。
市民生活に積極的に参加するとはどういうことか。
それは例えば(古代ギリシャでは)公的な場での議論に参加する、法廷で自己弁護する、陪審員ができる、そして最も大事なこととして軍務につく、というようなことだ。
文法、論理(ロジック)、 レトリック(修辞学)はリベラル・アーツの中核を為す。
と同時に、算術、地理、音楽(楽理)、そして天文学も(核とは言わないまでも)重要な位置を占める』
古典・古代に固執しない今日の理想的リストは、私の考えによれば、もっと広い分野に及び、もっと優先順位化されるべきだと思う。
理想主義者と、今日のリベラル・アーツ教育が「自由人として市民生活に積極的に参加する」との目標を達成すると考える者は、どちらも間違っている。
その意図するところはともかくとして、リベラル・アーツ教育が目標を達成するべくきちんと機能すると考える点でまちがえているのだ。
我々がもっと人間主義的(ヒューマニスティック)教育を必要としている点には同意するが、現在のカリキュラムに賛同するかしないかをヒューマニスティックの意味を定義せずに決めることは難しい。
リベラル・アーツ教育は、全ての市民が社会に参加するために身につけるべきクリティカル・シンキング(批判的思考)、論理、科学的なプロセスを本当に教えてくるのだろうか。
リベラル・アーツ教育は、多様な信条や状況、嗜好や前提条件下で、知的な対話や意思決定を可能にするのだろうか。
我々は既に知っていることを学生に教えるべきだろうか、それとも学生たちがもっと発見していくための準備をしてやるべきだろうか。
「人民の、人民による、人民のための政治」をうたったリンカーンによるゲティスバーク演説を暗記することは素晴らしい。
だが究極的には意味がないことだ。
歴史を理解することは興味深いし有益でさえある。
しかしエコノミスト誌のトピックスほど実質的価値はない。
科学的に思考しクリティカル・シンキング(批判的思考)技術をもって大きな問題を解くことのできる学生は世の中を変える潜在力がある(最低でもより給料の高い職につける。)
2014年のアメリカにおいては、警官によって何ら罪のない黒人が殺害されるなど、黒人に対する差別的扱いが社会的に大きな問題となった。
そこでこうした差別に対抗するために、#blacklivesmatter (#黒人の命は大事だ)というハッシュタグが広く使われ、これがこの年を代表する英単語に選ばれた。
科学的に思考しクリティカル・シンキング(批判的思考)技術をもつ人たちは、#blacklivesmatter (#黒人の命は大事だ)といった問題や、収入格差、気候変動などのトピックについて、①トランプ的な大衆扇動的手法(“トランピズム”)に陥ったり、②感情的になったり、③偏見に基づく歪んだ見方をせずに、議論できる。
それもそのはず、いくつかの研究が指し示すように、就職している大学卒業生の半数が実際は学位など必要のない仕事についているのだ。
彼らの学位は雇用主に対しての彼らの価値を高めていないのだ(ただしそれだけが学位の目的というわけではないが)。
もっというと、たとえ理想的なカリキュラムを組めたとしても 殆どのリベラル・アーツ専攻者は大抵そうしない(理想的なカリキュラムを取らない)のだ。
ゴールが専門家になる教育を受けることでないのなら総合的教育でなければならない。
そして大学の学位を敬意に値するものにしようとするなら、総合教育ではもっと多くの必須課程が学ばれなければならない、と私は思う。
もちろん違う意見を持つのも結構だ。
だがもしそうした教育のゴールが知的市民であったり、雇用されるのにふさわしい能力を持つ者になることであるということに同意するのであれば、正解かどうか試してみることができよう。
今の所 私のこれまでの議論は、専門的、職業訓練的、あるいは技術的カリキュラムに関連する事項をほとんど除いている。
またコストの面から大学教育を受けることが出来るのかどうかとか、受けた場合に負ってしまう債務の問題といった、重要かつ現実的な問題についても無視してきた。
それらの問題はもっと就職しやすいタイプの教育の話と結びついてしまうので。
私が失敗だと言及している点は2つだ。
(1)リベラル・アーツ教育は現代社会の変わりゆく必要性に対応していない
(2)リベラル・アーツ教育がたんに履修するに簡単なカリキュラムになってしまっているという点だ。
とくに(2)の点は、要求が厳しい専攻を避け、単位を取りやすい課目を選んで、社交的な学生時代を送りたいと考えている学生にとって、リベラル・アーツは安易なカリキュラムになってしまっているという現実だ。
今日の多くの学生にとって、価値ある授業よりも単位を取りやすい授業を選ぶことがなされている。
あるいは価値ある授業よりも自分に利益をもたらすような授業を選ぶことがなされてしまっている。
もしそんなことはないと考える人がいるなら、私は自分自身の経験から言って、これは今日の大半の学生について言える真実であると断言したい(もちろん全員がそうであるという訳ではないが)。
すべての科目がすべての学生に適しているわけではない。
しかしどの科目を選択するかは、学生が興味の対象や能力を鑑みながらそのニーズに従って決められるべきであり、学生時代を安易に過ごすために単位を取りやすい科目を選ぶといったことがなされるべきではない。
「好きなことを追い求めなさい。将来仕事に就けなかったり、ホームレスになる確率が高まるけれどね」と言うのは、私が滅多にしないアドバイスだ。つまり私としては賛成できない(トップ20%の学生やボトム20%の学生は別だが)。
情熱を持つ、つまり好きなことを勉強するというのは、もっと後になってからにしなさい。もちろん情熱を持つことが大事ではないと言うわけではないが。
私が言いたいのは、今日の多くのリベラル・アーツの専攻者は、スタンフォードやイェールのようなエリート大学でも(トップ20%の学生は例外として)自分の意見を厳密な意味で弁護出来ないし、説得力のある議論を展開したり、論理的に議論する能力に欠けているということなのだ。
スティーブン・ピンカーはマルコム・グラドウェルを論駁したが、そのことに加えて、ピンカーは、教育はどのようにあるべきかについて素晴らしいはっきりとした考えを持っていて、The New Republic誌に書いているのだが、彼によれば、「教育された人間は宇宙が誕生してからの130億年の先史と物理学の基本原則、人間の脳と身体を含む生物界を支配している基本法則を知っておくべきだ」
さらに、
「教育された人間は、農業の始まりから現在までの人類の歴史の流れを把握しておくべきだ」
「教育された人間は、人類の文化の多様性と、主要な信念や価値のシステムにさらされるべきだ」
「教育された人間は、人類史上の歴史を形作った出来事について、繰り返したくない失敗も含めて知っておくべきだ」
「教育された人間は、民主的統治と法の支配の背後にある原則を理解すべきだ」
「教育された人間は、小説や芸術の理解や鑑賞の仕方を知るべきだ。審美的喜びのためにまた人の有り様を考えるうえでの刺激になるように」
私は彼の考えに同意するが、このカリキュラムが次に述べるアイディアよりも重要であるかどうかはわからない。
次に述べる技術があれば、ピンカーの言う教育とのギャップ(相違)は、大学を終えてからでも埋めることが可能だ。
それでは専門家を目指していないエリートの教育は何を伴うべきだろうか
学校でじゅうぶんな時間が取れるのであれば全てをやろう、と私は提案するだろう。
悲しむべきことに、それは現実的ではない。
だから我々は基本的な必要事項についての優先リストが必要だ。
と言うのも我々がカバーするものには、いずれにも限られた可能な時間ではできないことがあるからだ。
限られた時間内で、何を教えるのが良いのか。
そして何が独学で自習時間に、あるいは卒業後学習として、または大学院での研究課題としてより学びやすいだろうか。
新しいリベラル・サイエンスという概念のもとで、私が提案するカリキュラムによって、学生は次のものを習得するだろう。
【1】 学習と分析の基本的なツール。
主にクリティカル・シンキング(批判的思考)、科学的な思考手順や方法論、そして問題解決と多様性へのアプローチ
【2】 幾つかの一般的なトピックに関する知識、今後数十年の間に遭遇するかもしれない諸問題を概念的にモデル化したり判断する上で必要となる論理学や、数学、統計学といったような基礎的知識
【3】 これらのツールがどの領域で使えるかを理解し、必要あれば領域を変更し、そして関心ある領域を掘り下げるスキル
【4】 競争の激しいグローバル経済において仕事に就く準備、あるいは①学生の将来の方向性や、②興味、さらには③どこにチャンスがあるかといった点に関する「不確実性」に備える準備
【5】 民主主義社会において、きちんとした情報を持ち、知的に判断できる市民であり続ける、つまり社会の一員として常に進化し最先端の情報を保持し続けることへの準備
重要な科目としては、経済学、統計学、数学、論理学、システム・モデリング、心理学、コンピューター・プログラミング、 そして現在の(歴史的なものではなく現在の)文化の進化を含むべきである。
文化の進化とは次のような質問を扱うべきだ。
例えば、
なぜラップ音楽が流行るのか
なぜISIS(イスラム国)が出現したのか
なぜ自爆テロをするような人が出てきたのか
なぜ「カーダシアン家のお騒がせセレブライフ」のようなテレビ番組が流行るのか
なぜトランプのような人が登場してきたのか
なぜ環境保護主義が台頭してきたのか。いったい何が重要で何がそうでないのか
これらの質問に対する答えは専門家の意見かそれとも何か別に妥当な答えがあるのだろうか。
さらに、文学や歴史などの人文科学分野は、今日の物理学がそうであるように、選択科目(必須ではない)になるべきだ。
(もちろん他の科学と同じように私は、基礎的物理学は必須科目にすべきだと提唱する)。
そして我々が直面している多くの社会問題についても熟考する力が必要だ(私の考えでは現在の軟弱なリベラル・アーツのカリキュラムではこの点に関する準備が出来ていない)。
想像してみて欲しい。各学期の必須科目授業で全ての生徒がエコノミスト誌やテクノロジー・レヴュー誌のような幅広い出版物からのトピックスを分析したり、討論したりする様を。
そして想像してみて欲しい。コアの(核となる)カリキュラムでいま言ったような議論をするのに必要なコア(核)となる技術を教える様子を。
そうしたカリキュラムは物理的、政治的、文化的、技術的な世界がどのように機能するのかをより現実的状況に合わせて理解する基礎を与えてくれるばかりでなく、世界を理解するうえでの直観力を伝えてくれる。
そしてそれは学生がいずれ経済活動に積極的に参加するうえでの準備になるだろう。
心理学を理解するのはひじょうに重要だ。
なぜか。それは人間の行動や人と人との係り合いは重要で、更に今後においても重要であり続けるからだ。
メディア、政治家、広告主や広告宣伝業者はときに誤った情報を提供し、彼らの思惑で提供する情報を選ぶ。よって彼らが提供するものに対して、それを無批判に受け入れないという免疫力を持っている人たちが私は好きだ。
というのはメディア、政治、広告などの専門家たちは人の脳の偏りにつけ込むことを学んでいるからだ。
この点については経済学と認知科学を統合した行動ファイナンス理論及びプロスペクト理論で有名なダニエル・カーネマン(ノーベル経済学受賞者)が著書『Thinking, Fast and Slow』(邦題『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』 早川書房)でよく論じている。
またダン・ガードナーの『The Science of Fear』の中でもよく論じられている。
私は歴史を理解する方法を教えたいとは思うが、歴史の知識を得るために時間を使って教えたいとは思わない。
というのは、歴史の知識を得るというのは学校を卒業した後でも出来るからだ。
【以下、次回(その4)に続く】
ビノッド・コースラというと歯に衣着せぬ発言をすることで知られています。
それだけにアメリカ社会の本音の部分を感じることもでき参考になります。
【以下、前回の続きです(コースラの文章を意訳したものです)】
コネ(Connections)は大事であり、イェールやハーバードなど多くのアイビー・リーグ大学はそこの卒業生になるということだけでも価値がある。
リベラル・アーツを学んだことによって視野が広がり、会話をする上での話題が豊富になったと信じる人たちもいる。
人文科学(humanities)は我々に知識をどう使うかを教えてくれるという人たちもいる。
あるオブザーバーは次のようにコメントした。
「人文科学(humanities)は法律家をして正当でない法律も法として守るべきかどうかを考えさせる。
エンジニアには人工知能が道徳的かどうかを熟考させる。
建築家には目的にかなった家を建てることのメリットについて立ち止まって考えさせるようになる。
医者には乏しい医療資源をある患者には使い別の患者には使わないことをどう考えるかについて教えることが出来よう。
これらが人文科学(humanities)の役割なのだ。
これはSTEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics)や医学などの高度専門職的教育の補完的役割を果たすものなのだ」
私の考えでは、創造性やヒューマニズム、そして倫理は教えるのがひじょうに難しい。
一方で、定量的(数的)で論理的、科学的に考えることをベースとする教育を受けてさえいれば、リベラル・アーツで教えられるとされる世俗的なこととか、たくさんの技能(スキル)は比較的簡単に自己修得できるものだ。
科学や工学(エンジニアリング)の教育では、批判的に考える技術、創造性、ひらめき、イノベーション(革新)、包括的思考を身に付ける上でじゅうぶんな訓練が出来ないと主張する人もいる。
これに反して、私は、より良いリベラル・サイエンス教育による科学的、論理的基礎はそれらの能力の幾つかないしは全てをもっと一貫性のある方法で修得せしめると主張したい。
「ロジカルであることで、リニア・プログラミング(線型計画法)の問題を解けるようになるかもしれないが、真に創造的解決能力を必要とする職業に就くには不十分だ」とする主張には、私はなんらのメリットも見いだせない。
リベラル・アーツ・カリキュラムの旧バージョンは、今よりも複雑でなかった18世紀の欧州中心の世界、そして思索と余暇にフォーカスしたエリート主義的教育においては、理にかなったものだった。
しかし20世紀以降においては、リベラル・アーツは(目的としていたものとは違って)、単に大学を卒業する上で「容易なカリキュラムである」との性格付けで進化を遂げるようになった。
そしてこのことこそが、学生がリベラル・アーツを専攻する上で、恐らくはもっとも大きな理由となったのだ。
私は今日の典型的なリベラル・アーツの学位で、もっと完全な思考力を身に付けられるとは思わない。
むしろリベラル・アーツは思考の次元を制限すると思う。
というのは、リベラル・アーツ専攻者は、①数学的モデルに慣れていない(きちんとした教育を受けて来なかった人々に欠けるのは思考の次元性であるように私には思える)、②逸話やデータに関する統計的理解に乏しい(リベラル・アーツはこの点について本来は有効に機能するはずだったが実際には極めて不十分だ)。
人文科学(humanities)専攻者は、たくさんの情報をどうやって消化するかといった点を含む、種々の分析スキルを教わると主張しているらしいが、私が彼らと接した経験からすると、概して彼らのこうしたスキルはまったくもって乏しいレベルである。
恐らくは意図としてはそうした分析スキルを身につけさせたいというものなのだろう。
しかし現実はそういった理想とは著しくかけ離れている(もっとも上位20%には当てはまらないというのは先に述べた通りだ)。
多くの大学においてリベラル・アーツのプログラムは勤労者にとって実践的なものではない。
金融だろうとメディアだろうと、あるいは経営目標を定めたり管理・実行する職だろうと、必要なスキルは、戦略的思考法とか、トレンド(傾向、趨勢)を見つけることとか、大局的な問題解決といったものなのだが、私の目から見れば、これらはすべて、今日の学位が提供するよりも、もっとずっとたくさんの定量的(数的)準備を必要とする。
リベラル・アーツ教育で得られるはずのそうした技術は、実はもっと定量的(数的)手法を学ぶことによって、もっとよく学ぶことが出来る。
エンジニアリングから医学までの多くの職業訓練プログラムにも、同じスキルが必要であり、これらのスキルを発展させ幅の広いものにさせて、彼らの訓練プログラムに加える必要がある。
しかし、もし私がリベラル・アーツか理工系教育のどちらかしか選択できないのであれば、私は理工系教育の方を選ぶだろう。たとえエンジニアになるつもりが全くなくとも、あるいはまだどんな職に就きたいか分からなかったとしても。
実際のところ私はエンジニアとして働いたことはほとんどないが、自分の仕事の上では、これまで次のようなスキルを必要としてきたし、これを使ってきた。
①リスクの評価、②能力の進化(投資対象者が能力を進化させられるか)、③イノベーション(革新)、④人物評価、⑤創造性とビジョンの体系化(vision formulation)
だからと言って、目標設定、デザイン、創造性が重要でないと言っているわけではない。
実際これらの項目は医学やエンジニアリングなどの高度専門職的学位を得る上で必要なものとして加えられるべきだ。こういった分野でのキャリアを歩む上で、現在では不十分な形でしか教えられていないからだ。
ますます多くの分野が非常に数量的になってきている。その結果、文学や歴史を専攻した人たちにとって将来好きな職業を選ぶことや、民主主義社会において知的な市民であることがどんどん難しくなっている。
数学、統計学、科学は独学では修得がやっかいで、だからこそ学校教育はそれらを学ぶのに最適な場所なのだ。一方、多くのリベラル・アーツのコースは大学卒業後でも修得可能だ。科学的思考や論理、クリティカル・シンキングのトレーニングがなければ、対話や理解ははるかに難しいものとなる。
今日のリベラル・アーツ教育の問題点を示す良い具体例がある。
著名な作家であるマルコム・グラドウェル(歴史学専攻でニューヨーカー誌の執筆を務めたこともある)が書いたことなのだが、彼は ストーリーはその正確さや妥当性よりも大事であると(本人は深く気づきもしないで)述べている。
マルコム・グラドウェルは2009年に『Outliers(アウトライヤーズ)』という本を著した(邦題『天才! 成功する人々の法則』講談社)。
ニュー・リパブリック誌はこの本の最終章を「どんな形のクリティカル・シンキング(批判的思考)にも影響されない、クリティカル・シンキングとは全くもって無縁である」と評した。
と同時に、同誌は、「グラッドウェルは“完璧な逸話は実態のないルール(つまり虚偽)さえ証明する” と信じている」と述べた。
グラッドウェルは著作『What the Dog Saw and Other Adventures』(邦題『犬は何を見たのか THE NEW YORKER 傑作選』講談社)で線型代数学の指標である eigenvalue (固有値) のことを間違って“Igon Value”と記してしまった。
このことを取り上げて、ハーバード大学の教授で作家でもあるスティーブン・ピンカーは彼の専門知識のなさを批判する。
「私はこれを“アイゴン値(Igon Value)問題”と呼ぶだろう。ある題材に関して書き手が得た教育がたんに専門家にインタビューすることで得られたものである場合、彼は陳腐で曖昧、もしくは完全に間違った一般論を提供しがちである」
スティーブン・ピンカーはこう言って批判したのだ。(訳者注:これはグラッドウェルのIgon Value問題として、その後、各方面で引用されることとなった。『こちら』を参照)。
不幸なことに今日のメディア人のあまりに多くが同様に、専門的内容を解釈するに足りる教育を受けてきていない。
ストーリーテリング(物語を話すこと)や引用が、正しい事実をわかりやすく伝えるのに役立つのではなく、逆に誤解を招く要因になってしまう。
グラッドウェルは 『天才! 成功する人々の法則』 の中で1万時間の法則を提唱した。
ビートルズであれ、ビル・ゲイツであれ、一流・天才と呼ばれる人は、例外なく1万時間の練習に打ち込んでいるというものだ。
彼の1万時間の法則は本当かもしれないし、そうでないかもしれないが、その思考の質のせいで私は彼の主張にまったくと言っていいほど重きを置かない。
マルコム・グラッドウェルの例一つでリベラル・アーツ学位が有効でないことを証明するわけではない。
しかし私は多くの人文科学(humanities)卒業生と接してきたが、彼らの多くは(人の話に基づいたり逸話に基づいて判断したりして)間違った考え方をしてしまっているように見受けられる。
実際、エリートが読むとされる雑誌であるニューヨーカー誌やアトランティック誌に書かれた 多くの書き手による記事に矛盾点があることを私は気づくのだが、グラッドウェルは(意図的にそうしたのではないのだろうが)気づかなかった。
もちろんこのことも統計的に有効な結論ではない。しかし一人の人間の数百、数千の具体例から得られた印象だ。
私は時々このような出版物の記事をからかい気分で読む。①間違った議論、②根拠のない結論、③単なる物語を事実に基づく断言と混同すること、④インタビューからの引用を事実と誤認すること、⑤統計の誤用などをもとに、書き手の思考の質を判断するのだ。
こうしたことと同様なことなのだが、説得力のある思考の欠如は、悪い決定、じゅうぶんな情報の無いレトリック、そして原子力や遺伝子組換え作物などのようなトピックに関する批判的思考の欠如につながる。
残念ながらますます複雑化する世界では、多くのリベラル・アーツ専攻者が、たとえエリート大学の者たちであっても 論理的スキルを身に付けることができていないようになってしまった。単純な個人の財務計画から所得格差のような社会問題に至るまで、リスクとリスク評価のテーマは、殆どのリベラル・アーツ専攻者によって、あまりに情けないレベルでしか理解も考慮もされていない。
それゆえ私は悲観的な気分になってしまう。
エンジニアリングやSTEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics;日本でいう“理系”)の 専攻者がこれらのトピックに向いていると言っているわけではない。
そもそもSTEMや高度専門職的教育の目的はそこにないのだから。
リベラル・アーツ教育の目的はスティーブン・ピンカーが言うところの“自己構築”である。これに付け加えて、私は“技術的にも大きく進化する21世紀に通用するような” 「自己構築」 としたい。
キャリア・パスのために、あるいはキャリアにとってプラスになるからといって、新しい分野について学ぶことは、以前より難しくなっている。
伝統的なヨーロッパのリベラル・アーツ教育は少数者そしてエリートのためのものだった。
今日でもそれがゴールだろうか。
人々は学位を取るために、何年もの年数を費やし、ちょっとした財産を使ってしまって、あるいは生涯にわたるような借金を抱えて込んでしまう。こうして得た学位は単なる知的市民になることに貢献するだけではじゅうぶんではあるまい。雇用されやすい能力が身に付くことがひとつの評価基準であるべきなのだ。
Quora (クオーラ)というサイトがあります(『こちら』)。
これは米国版のQ&Aサイトなのですが、特徴がいくつかあります。
まずサイトに質問や答えを投稿するには自分が誰かを登録する必要があります(私もすでに登録しています)。
登録に際しては通常はグーグルかフェイスブックのアカウントを通じて登録する形になるのですが、現在の職業や学歴、どこに住んでいるのかを聞かれます。
回答者(本名での回答)がどんな人なのかを知れば、回答を読む人にとって参考になるからです。
この辺が「ヤフー知恵袋」や「OKWAVE」との違いで、Quora の方が信憑性が高いと考えている人が多いようです(『こちら』)。
Quora は Facebook のChief Technology Officer だったアダム・ディアンジェロと彼の同僚のチャーリー・シーヴァーによって2009年に開設されました。
日経新聞などによく載るユニコーンという言葉を聞いた方も多いかもしれません。
公開(上場)前の会社で、企業としての評価額が10億ドル(約1150億円)以上のものをユニコーンと言っています。
創業5年目にして Quoraは、Series C のファイナンス(VCによる3回目のファイナンス)を実施。
このとき VC たちは Quora の企業価値を9億ドル(約1000億円)と置いて、ニューマネーを入れました(『こちら』)。
つまり 2014年の時点で Quora はすでにユニコーンに近い存在だったと言えます。
ちなみに時価総額1000億円というと、日本では紳士服のAOKIを傘下に持つAOKIホールディングスが1か月前の株価をベースに計算して時価総額1000億円のレベル(ほかに三井住友建設、ゼリア新薬工業などもこのレベル)。
なお「OKWAVE」の時価総額は34億円。
「ヤフー知恵袋」や「OKWAVE」のサイトにはたくさん広告が載っていますが、Quora のサイトには広告が載っていません。
2年前、Quoraは未だ収入ゼロの段階で企業価値1000億円を付けたとして話題になりました(『こちら』)。
* * *
さて前置きはこの位にして本題に入ります。
『大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか』
と題する質問が Quora に載りました。
これに対してベンチャー・キャピタリストのビノッド・コースラ(『こちら』)が回答を寄せました。
全文は『こちら』の通りですが、以下彼の回答を翻訳(意訳)してみましょう。
なおコースラについてはこのブログで幾度となく触れたことがあります(例えば『こちら』)ので覚えておられる方も多いかもしれません。
(スタンフォードで講演するビノット・コースラ)
『大学でリベラル・アーツを専攻するのは誤りか』
【コースラの回答】
【1】
まず学ぶべきなのは:
クリティカル・シンキング(あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法;批判的思考)や
科学的プロセスについてである。
人文科学(humanities)は後でも構わない。
かつてフランスの細菌学者ルイ・パスツールは「幸運は用意された心のみに宿る」と述べたが、今や我々の国はたいへん不運な国になりつつある。
今日リベラル・アーツ(liberal arts)の課程で教えられていることは、ほとんど未来に意味を持たないからだ。
自然科学や経済学についてはアップデート(更新)されてきた。
これらは、心理学のシフト(転換)理論や、プログラミング言語、政治理論の発展を取り入れ、太陽系にどれだけの数の惑星があるかという点さえも含めて、アップデートされてきたのだ。
これと同じように、文学や歴史についても21世紀に見合う適切な優先順位に沿うようアップデートされているかで評価されるべきだ。
私には米国のリベラル・アーツ(liberal arts)教育は18世紀の欧州の教育がマイナーな進化を遂げたものに過ぎないように思える。
世界はこれよりももっと多くのものを必要としている。
大学での4年間の教育は(医学部などの高度専門職的教育に直結するものを除き)、新しいシステムが必要だ。
新しいシステムとは、自然科学や社会、ビジネスに関連する問題に対して、科学的プロセスを使いながら学び評価していく方法を教えるというものである。
確かにジェーン・オースティンやシェイクスピアは重要かもしれない。
しかし知的能力があって、常に学び続ける人間、そして今日のますます複雑・多様化しダイナミックになる世界に適応する人間を作る上では、オースティンやシェイクスピアは他の多くのことよりも重要度で劣後してしまう。
基礎的な教育でこうした時代に適応するものを表現する言葉として、私はここでリベラル・サイエンスという言葉を新しく造りたいと思う。
このリベラル・サイエンスでのテストは簡単なものだ。
4年間の学部を終えた段階で、学生はエコノミスト誌のすべてのページを毎週大雑把であっても理解しこれに基づいて議論することが出来るかどうか。
これこそが古代ギリシャのリベラル・アーツを今日の世界に適応するようにアップデートさせたものだ。
今日の通常教育(医学部などの高度専門職的教育に直結するものを除く)においてもっとも重要なのは、①クリティカル・シンキング、②問題解決のスキル、③ロジックや科学的プロセスの精通、④そしてこれらを使って自分の意見を築き、他と議論し、決断する能力を磨くことである。
これらのほかにも例えば対人関係能力やコミュニケーション力なども重要だろう。
【2】
それでは今日のリベラル・アーツ(liberal arts)学位のどこが問題なのか。
リベラル・アーツの古い定義と、今日リベラル・アーツの名のもとに実施されている教育、そのどちらもが、4年間の時間の使われ方としては最適なものとは言い難い。
解決するのにもっとも難しい問題(そして実利的な問題)は技術的な問題ではない。
私の意見では、STEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics;日本でいう“理系”)の学位を取った方が今日のリベラル・アーツの学位よりも、これらの問題を効果的に考えることが出来るようになる。と言っても、STEMでは完璧な思考法とはほど遠いものしか得られない。
そしてリベラル・サイエンスはより完璧に(能力を磨く)役割をはたすだろう。
そんなことを言ったって、エール大学に行って(リベラル・アーツを学び)大きな成功をおさめた人々もいるじゃないかと指摘する人もいるだろう。
しかしそう反論する人は統計が分かっていない。
多く成功者がリベラル・アーツ専攻で始めている。同時に多くの成功者はリベラル・アーツ専攻ではなかった。
動機づけがしっかりしていて、やる気があり、高い知能を持つ人、あるいはラッキーな人はリベラル・アーツ専攻であっても成功者になっている。
しかしよく考えてみると、動機づけがしっかりしていて、やる気があり、高い知能を持つ人は、どんな学位であっても、あるいは大学を卒業していなくとも、成功者になっている。
アップルのスティーブ・ジブズやMITメディアラボ所長の伊藤穰一はどちらも大学を中途退学している。
伊藤穰一は独学で学んだコンピューター・サイエンティストであると同時にディスクジョッキー、ナイトクラブ経営の起業家、テクノロジー分野の投資家でもある。
上位20%の人間は彼らの受けた教育がどんなカリキュラムであっても、あるいはまったく教育を受けていなかったとしても、きちんと成功への道を歩むものだ。
残り80%の人々の潜在能力を極大化しようとするならば、我々にはリベラル・サイエンスのカリキュラムが必要だと思う。
イェール大学は最近になってコンピューター・サイエンスが重要だと認識するようになった(『こちら』のブルームバーグの記事参照)。
私は次のように質問したい。
「もしあなたがフランスに住んでいるのであれば、あなたはフランス語を学ぶべきではないか。
もしあなたがコンピューターが重要な役割をなす世界に住んでいるのであれば、あなたはコンピューター・サイエンスを学ぶべきではないか」
コンピューターが重要な役割をなす世界に住んでいたら学校で要求される言語は何語だろうか。
そしてもしあなたがテクノロジーの世界に住んでいるのであれば、あなたは何を理解しなければならないか。
伝統的な教育というのはかなり遅れてしまっていて、旧世代のテニュア(終身在職権)を持った大学教授たちは偏狭な見方と興味を持って足を引きずっているだけだ。
私が問題にしているのはリベラル・アーツがゴールとしているところではない。
問題なのはリベラル・アーツが実際には何もなし得ていないという現実と、18世紀の欧州の教育とその目的としていたものからほとんど進化してないという現実だ。
リベラル・アーツのもともとのゴールはクリティカル・シンキングにあったはずだが、今日ではこれを学校で教えることについてほとんど重要視されていない。
多くの大人たちが科学やテクノロジーの重要性についてほとんど理解しておらず、もっと大切なことなのだが、これらの問題についてどうアプローチしてよいかさえ分からない。
その結果、多くの問題について貧しい意思決定しかできない。
そしてこのことは彼らの家族や社会全般について悪影響を与えているのだ。
【注】コースラのこの回答は長くて、以上で全体の5分の1をカバーできているにすぎません。よってこの続きは次回以降に書くことにします。
買ったものを自分で精算するセルフレジはGUなどでも見られるようになってきました。
ところが、アマゾンが昨日オープンさせたスーパーは、レジでの精算手続きさえもいっさい必要のない、そもそもレジが無いスーパーだったものですから、全米の話題を呼ぶことになりました(『こちら』)。
レジが無いスーパーとは、棚に商品が陳列されているだけで、消費者は棚から欲しいものを取って、自分のカバンやバッグに入れ、店を出るだけ。
「まるで万引きをしているような感覚」とは上記のロイター記事ですが、店に入る時にスマホのアプリを起動してチェックインし、棚から商品を取るたびにスマホ上で何をピックアップしているのかが分かる仕組み。
と書いても、実際には分かりにくいかもしれません。
百聞は一見にしかずなので、『こちら』 で1分49秒の動画を見て頂くのがいちばん分かりやすいと思います。
昨日オープンしたこの店は当面のところアマゾンの従業員のみが使える実験店舗ですが、来年早々には誰でも使えるようになるとのこと。
レジ自体がなくなると、ますます人間が働く場所が減っていってしまうことになりそうです。
ところでこの「レジの無いスーパー」、名前はAmazon Go と言うんだそうです。
ポケモンGOがヒットしたことに影響されてこの名前になったのでしょうか・・。
小池都知事がよく使ってきたレガシーという言葉。
ウェブスターによると、
something transmitted by or received from an ancestor or predecessor or from the past
とのことで、要は「前の代が残したもの」、「遺産」という意味。
とくにポジティブとかネガティブといった、どちらかに偏った意味合いはないようです。
ちなみにオリンピック憲章には、
to promote a positive legacy from the Olympic Games to the host cities and host countries
と記されています(『こちら』の19頁)。
(アウトバーン;From Wikipedia)
ドイツのアウトバーンを車で走ったとき、運転しているドイツ人が
『アウトバーンはヒトラーのレガシーだ』
と話していました。
企業でも前の経営者が残してくれたレガシーによって現在の発展があるということがよくあります。
任天堂が昨日発表した「マリオ」などのキャラクターと遊べるテーマパーク。
これをUSJ(大阪)や米国ユニバーサル・スタジオ(フロリダとカリフォルニア)内に作るという話ですが、これはそもそも任天堂が2015年5月に米ユニバーサル・パークス&リゾーツ(UPR)との提携を発表し、以降開発を進めてきたもの。
まさに岩田前社長のレガシーと言えるでしょう。
ポケモンGOも、今から2年以上も前から岩田前社長がプロジェクト実現に強い期待を寄せていたと言います(『こちら』)。
前社長の残したレガシー。
あまりに若くして亡くなられた経営者のことを思うと残念でなりません。