齋藤孝『知性の磨き方』。
今年の初めに出版社から献本して頂き一度読みました。
その時の感想は「いい本だな。感想を書いてみたい」というものでしたが、奥行きの深い本だけに簡単には書くことが出来ず、今日に至ってしまいました。
結局2度読みに近い形になってしまいましたが、2度読みの価値はあると思います。
どんな人に向いているかというと、多分悩んでいる人に向いているのではないかと思います。
著者によれば、
「知性とは、困難な問題や厳しい現実に直面したときに、その原因が何であるかを見極める力であり、取りうる現実的選択肢を探る力、そして実際に行動を起こし、対処するための力に他ならない」(本書4-5頁)。
知性は必ずしも知識とは一致しない・・「論語読みの論語知らず」という言葉があるように
「どれだけたくさんの本を読み、膨大な知識を蓄えていても、単にレジュメ風、つまり何年何月にどんなできごとがあり、誰々という偉人がこのようなことをいった、などの事実を羅列式に知っているだけなら、それは雑学」(本書5頁)
でしかないとのことです。
と、ここまで述べた上で、本書は知性を磨くためにも先人たちの思考の過程を追体験してみようと、漱石(第1章)、福澤(第2章)、西郷隆盛(第3章)、西田幾多郎(第4章)などの足跡をたどっていきます。
この中でも圧巻は(少なくとも私にとっては)第1章の漱石の話。
以下、第1章のなかから参考になるかもしれない文章を抜粋していきます。
「当時の日本には、1日でも早く列強に追いつかなければ国が滅んでしまう、くらいの危機感がありましたから、西洋の社会制度や技術、文化・芸術に至るまでたとえ猿真似と呼ばれようと必死に真似していく以外の道はなかったのです。
しかしそれが非常に辛いこと、特に知識人にとっては耐え難い痛みを伴うことを、漱石はよくよく理解していました。
いま西洋から日本に押し寄せている大きな潮流は、決して逆向きに流れることはないし、その波に晒されることによって、日本という国家と日本人は、今後自分を見失いがちになるのは避けられないだろう。
そしてその中で『滑るまい』、つまり自己同一性を保とうとするなら、もはや神経衰弱に掛からざるをえないだろう、というのです」(本書32頁)
「漱石は、〈私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろう〉とも述べています。
しかし、聴衆にそう語りかけている漱石自身、実はこのときすでに神経衰弱を相当にこじらせているのです」(本書33頁)
「漱石の懸念した潮流に対し、『だったらこちらも西洋流の生活をすればいいだけだ』と開き直る人もいましたし、逆に『世の中がどれだけ西洋風になろうとも自分はすべて日本式で通す』と意固地になる人もいたはずです。
このようにどちらか一方の極に簡単に振り切れる人の場合は、複雑な現実を見ていないぶん、神経衰弱になることはなかったはずです。
しかし漱石は、そのような単純な考えを持つにはあまり知性が高く、また現実が見えすぎていました」(本書33頁)
「漱石は、日本ではエリートであるはずの自分が、英国の社会においては『日本人である』というだけで軽く見られる経験を留学中に何度かしています。
おそらくはその影響もあり、彼はやがて当時の国際社会における日本の弱い立場を自分自身の劣等感として抱え込むようになりました」(本書35頁)
「やがて漱石は大学へ聴講に行くこともやめてひたすら下宿で英書を読みふけるようになり、ついには精神に変調をきたすようになりました」(本書36頁)
「『こゝろ』という1つの作品だけをとっても実に多くのテーマが読み取れる構造になっています。
エゴと誠実さ。友情と恋愛。近代的自我。罪と罰。真面目に生きるとは。夫婦とは何なのか。師弟関係とは。あるいは殉死の是非、明治とはいかなる時代だったのか等々―。
これだけ多くのテーマを内包すればこそ、読む人が時代を超えて『これは自分の問題だ』と感じさせることができるのであり、同じ1人の読者でも、数年経ってその人の立場や心境に変化が生じると、以前読んだときとはまったく違う印象を受けたりするのです」(本書44-45頁)
「戦後を代表する評論家の1人である江藤淳は、学生時代に『三田文学』で発表し絶賛された論文『夏目漱石』で次のように書いています。
『しかしぼくらが漱石を偉大という時、それは決して右のような理由によってではない。
彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり、一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである』
『彼が「明暗」に「救済」の結末を書いたとしたら、それは最後のどたん場で自らの問題を放棄したことになる。(中略)そして生半可な救済の可能性を夢想するには、漱石はあまりに聡明な頭脳を持ちすぎていたのである』」(本書45頁)
漱石のこうした悩みぬく姿を紹介しつつ、本書の著者の齋藤孝さんは読者に対してこう語りかけます。
「そもそも現代においては、普通に会社勤めをし、毎日仕事をこなしていくだけでも肉体的・精神的に相当タフであることが求められます。
20~30代くらいの年代だと、自分のキャパシティ以上の要求を多方面から同時に受けていっぱいいっぱいだ、という人も多いでしょう。
しかしそんな溺れてしまいそうな状況にあっても、ほんのひと呼吸ができる足場のようなものが自分の中にあれば、そこで呼吸を整え、自分のペースを取り戻すことはそれほど難しいことではありません。
読者の皆さんには漱石から、そういう場所をもつための方法論も学んでほしいと私は思います」(本書55頁)
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悩むことから逃げずに辛くとも正面から向き合う。
何にも悩んでいないように見える人も意外なところで悩んでいたりします。
自分だけではないと知ることでも少しは楽になります。
その昔、『こゝろ』を読んだ時に、暗くて重い陰のようなもの、出来れば「見ないですませたいもの」を、見させられた印象を持ちました。
逃げずに一生悩み続けた漱石であるがゆえの作品だったのだと改めて思います。