JFK著『勇気ある人々』
JFK(ケネディ大統領)のこの著作は1956年に出版されたもの。
つまり大統領になる5年前で、このとき彼は上院議員。38歳でした。
JFKはこの著作でピュリッツァー賞を受賞。
日本では下島連氏の翻訳で1958年に出版されています。
それから50年。
2008年に宮本喜一氏の新訳で復刊されました。
そこには1963年にRFK(ロバート・ケネディ)が寄せた序文と、2003年にキャロライン・ケネディが刊行50周年に寄せて寄稿した文章とが訳出されています。
(以下、RFKによる序文から)
『ケネディ大統領は、もし生きていれば1964年5月に47歳になっていたはずだ。
ケネディがこの地球上で過ごした時間の少なくとも半分は、身体に非常な痛みを感じる日々だった。
幼いとき猩紅熱にかかり、大人になると今度は背中に深刻な障害を負っている。
その間も、ありとあらゆる疾病に苦しんだ。
われわれ兄弟の青年時代、「ジャックの血を吸おうとする蚊は命がけだな」と、
2人でよく笑い合ったものだ。
というのも、兄の血を吸えばほぼ確実に、その蚊は死んでしまうからだ。
兄は戦争が終わるとチェルシー海軍病院に入院し、1955年には背中に大手術を受けている。
1958年の選挙では松葉杖をつきながら遊説に臨んだ。
1951年には2人で世界旅行をしている最中に体調を崩し、沖縄にある海軍病院に飛んだとき、熱が41度もあった。
医者はもう助からないと考えていた。
ところがその当時、私は兄の泣き言を一言も聞いたことがない。
神が自分のことを不当に扱っているという意味の言葉を、一切耳にしたことがない。
兄をよく知る人たちは、顔色が少し青白くなり、目がやや落ちくぼみ、口調がちょっときつくなっている様子から、やっと、苦しんでいることをさとっていた。
兄のことをよく知らない人たちは、何も気がつかなかった。
兄が自分の問題でぐち一つ言わないのだから、私も自分自身の問題にぐちを言えるわけはない。
いつもお互いにそう思っていた 』
『ケネディ大統領がホワイトハウスで仕事をしたのは、本来の任期である三千日間には届かず、わずかに千日だった』
(以下、キャロライン・ケネディの寄稿文から)
『ジョン・F・ケネディの公的な責務は、第二次世界大戦のとき、南太平洋で快速哨戒魚雷艇を率いたところから始まる。
1943年8月2日の夜、哨戒任務中に、そのPT109は日本の駆逐艦「天霧」に体当たりされ爆発炎上、乗務員は炎の海に投げ出された。
兵士2人が死亡、1人の兵士が大やけどを負い、なすすべもなく波間にただよっていた。
この兵士の救命胴衣のひもを口にくわえたまま、ケネディ中尉は3マイル先にある最寄りの島に泳ぎつく。
それから6日間、ほとんど飲まず食わずで、日本兵に捕らわれないよう身を潜めていた。
毎夜、ケネディは鮫が出没する海を泳いで近くの島に渡り、救助を求めようとした。
そこで2人のソロモン島の住人に出会う。
エローニ・クマナとビウク・ガサだった。
ケネディはこの2人がくれたココナッツの実に伝言を刻み込み、2人はそれをオーストラリア人の沿岸警備兵の隠れ家に持っていった。
これが全員の救出につながる』
『父は私たち家族にこう諭していた。
「いくら歳をとっていても、逆にどんなに若くても、私たちはみな、世の中の役に立てるはずだ」』
* * *
『勇気ある人々』、お勧めです。
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