前回の続きです。
叔父さんの不注意が原因で、間違った学校に送られてしまったジェンスン・ファンさん。
まだ9歳だというのに、たった一人、異国の地です。
しかもこの学校(?)は、問題を起こした児童や生徒の更生を目的とする施設。
ルームメートは刑務所帰りの17歳。
この施設はこれまで外国人を受け入れたことがなく、そもそも所在地のケンタッキー州オネイダには、中国人や台湾人がやってきたことさえありませんでした。
ウィキペディアで調べると、オネイダは人口410人と出てきます。
ジェンスン・ファンさんは結局この学校(施設)に9歳から11歳まで2年間いることになりますが、
問題児たちに何度も袋叩きにされ、午後は彼だけがいつも便所掃除をさせられるといった有様。
英語も満足に話せなかったでしょうから、毎日毎日、恐らくは生きた心地がしなかったのではないかと思います。
それでも当時のことを振り返って、ジェンスン・ファンさんは、
「貴重な経験だった」
と言います。
「おかげで、不快や苦しみに耐えることが出来るようになったんだ」
さて、その後、漸くと言うのでしょうか、ジェンスン・ファンさんの両親も米国にやってきて、一家はオレゴン州に落ち着きます。
そしてここからの人生はまともです。
ジェンスン・ファンさんは、高校時代にコンピューターに興味を持つようになると同時に、
卓球の全米チャンピオンになったこともあるのだとか。
大学はオレゴン州立大学(Oregon State Univ.)に進み、電子工学を専攻。
その後、スタンフォード大学の大学院で同じく電子工学の修士を取得。
卒業後は、半導体(プロセッサー)の設計者として、AMDに採用されます。
しかしすぐにAMDからLSI Logic社に転職。
そして1993年2月17日。
ジェンスン・ファンさんが30歳になったその日でした。
彼はLSI Logic社を退社。
恐らくは30歳の誕生日に辞めると決めていたのでしょう。
このときジェンスン・ファンさんは持っていたLSI Logic社のストックオプションを全額現金化して、
それで得た1500万円を起業の為に使うことを決断します。
ちなみに1993年というと、ウィンドウズ3.1の時代です。
「これからはグラフィック・チップの時代が来る。
このテクノロジーによってコンピューター画面の色彩、音楽、動きが圧倒的に進化する。
これを使えばコンピューター・ゲームはもっとずっと楽しくなる」
こう彼は信じ、当時サンマイクロで活躍していたクリス・マラコウスキーとカーティス・プリームの2人と共に
エヌビディア社を設立します(1993年4月5日)。
ジェンスン・ファンさんを含む共同創業者3人は各々2万円ずつを新設する会社に出資し、会社の20%ずつを保有することにしました。
この2万円が現在の彼の個人保有資産1兆6000億円になっているということになります。
エヌビディアに最初に投資したVC(ベンチャーキャピタル)はセコイア(Sequoia)とサターヒル(Sutter Hill)の2社で、彼らは両社で2億円を出資しています。
2009年、ジェンスン・ファンさんは母校スタンフォードで講演を行っています。
その時の様子が動画となってネットにアップされています。
最初の5分間と最後の1分間が音の調子が悪くてよく聞こえませんが、残りの55分間は素晴らしい内容。
ビジネススクールの授業を聞くよりも勉強になります。
『こちら』です。